わたし達はおとな

かなり乱暴なつくり、日常的リアルの果てに…

「今最も注目を浴びている演出家・劇作家の加藤拓也(公式サイト)」監督の長編デビュー作を見てきました。現在28歳の方で「劇団た組」の主宰者です。

主演は「菊とギロチン」の木竜麻生さんと「のさりの島」の藤原季節さんです。

わたし達はおとな / 監督:加藤拓也

リアルさのその裏側に

優美(木竜麻生)と直哉(藤原季節)の恋愛模様(?)を徹底的にリアルな二人の会話で描こうとしています。その中でも一番のポイントは、ムキになって飾らない言葉を発してしまう言い争いのシーンであり、二人の俳優がそうした映画の狙いによく応えています。見たくない他人のプライベートを見せられているように感じます。

で、実際、この映画はただそれだけの映画(ペコリ)です。

もちろん、そうした二人のシーン以外にも、優美が友人たち4人で行動するシーンであったり、優美に好意を持っているらしい(よくわからない)男とのシーンであったり、直哉が演劇サークルの人物と話すシーンであったり、直哉の元カノとのシーンであったりと、二人が他の人物と接するシーンもあるのですが、そこでの会話は極めてありきたりで説明的です。

なにを説明しているのか?

あたかも二人が本音でぶつかり合っているようにみえるぶつかり合いでさえ、実は日常の行いとは裏腹だということを説明しています。

だからなに? ということです。

映画的リアルとはなにか

率直にいって舞台で見たほうが面白くなりそうな内容です。映画的じゃないということです。舞台でのリアルさは場の空気を支配するだけのパワーを持ち得ますが、映画はいくら日常をリアルに再現したとしても、そこからそれ以上のものが見えてくることはまずあり得ません。

だからなに? とはそういうことです。

映画は日常をリアルに描くものではなく、日常のある一面を切り取ってくる(べき)ものだからです。

この映画で言えば、なぜあの優美と直哉の力関係が現実となってしまうのかということがもっとも本質的なことです。舞台であれば二人以外のシーンもふたりで表現することが可能ですので、俳優に力がありさえすれば本質的なことに迫れますが、映画はそういうわけにはいきません。

映画に技術が足りない

優美は大学生、デザインを学んでいるのか得意なのかわかりませんが、友人からある劇団のチラシのデザインをしてみないかと誘われます。そして大学の演劇サークルの直哉と出会い、キスまではいいよと言いながら付き合うか付き合わないかなどと4人の女友達の話のネタにしています。また、優美は付き合っているわけではない男からペアのネックレスといった不相応なプレゼントを受け取ったりしています。そしてその後(時の経過はわからない)、直哉との一泊旅行を経てセックスをする付き合うという関係になり、直哉が優美のマンションに転がり込んできます。しかし、ちょっとした喧嘩(なのか、このあたりよくわからない)で一度別れることになります。その後(時の経過はわからない)、ある時の合コンでその日限りの男とセックスをし、その男は優美がやめてというのに避妊をせずに射精をしてしまいます。その後(これも時の経過はわからないがストーリー的には直ぐ、ここで直哉が転がり込んできたのかも知れない)、再び直哉と付き合うようになりますが、しばらくして妊娠していることがわかります。優美は直哉に妊娠していることを話し、実は誰の子どもかわからないと告白します。

直哉は大学の演劇サークルの中心的な人物です。メンバーのひとり(これが不相応なプレゼントの男だったか?)から優美を紹介されます。その後、チラシのデザインを頼んだり、観劇に誘ったりし、温泉への一泊旅行を経て付き合うことになり、優美のマンションに転がり込みます。ただ直哉はそれまでも付き合っていた女性のマンションに転がり込んでいた状態であり、優美のマンションに移る際にも優美に手伝わせています。そして、一度の別れ(このとき直哉がどうしたのかはわからない)を経て再び優美のマンションに転がり込み、優美の妊娠、そして誰の子どもかわからないことを聞かされます。

という映画なんですが、カメラワークや編集に独自性がありません。

やや短絡的な言い方ではありますが、カメラワークはなにを撮ろうとしているのかの意志であり、編集はそれをどう語るかの意志です。その意志が感じられません。特に編集はかなり時系列をシャッフルしており、映画の内容的にはなにを語ろうとしているのか曖昧になりかえってマイナスです。

それにスクリーンサイズを中途半端なサイズに変えたりしていましたが意味不明です。あれ、スタンダードとビスタといった違いじゃないですね、最初のシーンはスタンダートサイズくらいだと思いますが、途中で変わるより広いサイズでもプロジェクターからの画角の漏れがありましたのでかなり中途半端なサイズではないかと思います。それに4人の女性の温泉旅行ではスマホの縦型で見せるシーンもありましたがはっきりいって無意味です。

すでに映画も、テレビやネット動画と同列に語られるコンテンツとなっていますので、なかなか長く語られるものを目指すこと自体が難しい状態ではありますが、そうした小手先にも見えるテクニック(的なもの)では、それこそ長く残るもの(コンテンツ)は生まれてこないと思います。

女性への悪意か

この映画、優美と直哉を描いているようにみえて直哉から優美への視点でつくられています。加藤拓也監督が男性だから無意識的にそうなるのかも知れませんが、男性の持つ身体的優位性、セックスの根源的攻撃性、そして社会構造からくる言葉の暴力性を直哉という人物に反映させながら、優美という女性にはそれへの受動性しか与えていません。

女性4人では男の行動を下ネタ的に揶揄できても、一対一の関係では女性を従属的にしか描けないということです。

それこそが映画においてリアルさにこだわることの限界であり、リアルを越えた現実を描こうとしない限りあるひとときの面白さで消費されていくことになるんだろうと思います。