人生はサスペンス、次々放たれる不穏の矢の行き先は人生しみじみ…
フランソワ・オゾン監督です。レビューを書くたびに書いていますが、オゾン監督は年1本ペースという多作かつその内容も多様でありながらどの作品も出来がとてもいいです。とにかく映画のつくりがうまいですし、やろうとしていることか明快な監督です。
- ルカによる福音書から罪深い女…
- サスペンス風の一の矢が放たれる…
- 二の矢は事故か、事件か…
- ミシェルの過去が明らかにされ…
- サスペンス風の最後の矢が放たれる…
- ミシェルとヴァレリーの和解か、そして…
- 映画づくりを楽しむフランソワ・オゾン監督…

ルカによる福音書から罪深い女…
この「秋が来るとき」もとてもよく出来ています。なにかよくないことが起きそうな感じが常に漂い、そしてよくないことが実際に起きるのですが、でも起きてしまっても決してよくない方へはいかないのです。
こういう味のある映画を撮れる監督はそうはいないです。それにオゾン監督は人物を大切にしますので登場人物が皆生きています。説明的なシーンや台詞で物語を語るのではなく、何気ないシーンや人物の表情を捉えたカットを積み重ねることで物語っていくのです。
映画は教会での神父の説教から始まります。新約聖書ルカによる福音書7章36-50節に記されている(らしい…)「罪深い女」の話が語られます。
詳細はリンク先を読んでいただくとして、要点はイエスがあるところに食事に招かれたところ、その主はイエスに敬意を示す行為をしなかったのですが、娼婦と思しき女性がこの上ない敬意を示す行為をしたという話で、イエスはその女性にあなたの罪は赦されたと語り、その家の主を諭したということです。
神父の説教を聞く中に80歳になるミシェル(エレーヌ・ヴァンサン)がいます。つまり、この冒頭のシーンで説教の中の女性とミシェルを重ね合わせているのです。
でも、そうとわかる人はさほど多くはいないでしょう。私もああそういうことだったのねと最後に気づいたわけです。
とにかく、なにかよくないことが起きそうだというサスペンス風でもあり、それが起きてしまうわけですからちょっとだけクライム風でもあるという、しかしながら最後は、ああ人生ってこういうものなんだなあとしみじみ感じ入る映画かと思います。
サスペンス風の一の矢が放たれる…
主要な人物は、そのミシェルに娘のヴァレリー(リュディヴィーヌ・サニエ)と孫のルカ、そしてミシェルの親しい友人マリー=クロード(ジョジアーヌ・バラスコ)と息子のヴァンサン(ピエール・ロタン)です。
ミシェルはブルゴーニュの田舎で一人暮らしです。パリで暮らしていたときのアパートメントをヴァレリーに譲り、もともと暮らしていた(と思う…)ブルゴーニュで余生を過ごそうということだと思います。
ミシェルには孫のルカが生きがいのようです。休暇を過ごすためにルカがやってくるのを心待ちにしています。マリー=クロードと森へキノコ採りに行き、家庭菜園で人参やかぼちゃを収穫して手料理をつくります。
ヴァレリーとルカがやってきます。ここでまずひとつ目の不穏な空気が放たれます。ヴァレリーがミシェルに対して妙に刺々しく、その口調には何かを咎めるような含みがあります。ミシェルは夫との離婚問題を抱えているせいと言っていますがそれだけではなさそうです。
そして事件が起きます。きのこ料理を食べたヴァレリーが食中毒で救急搬送されるのです。一命は取り留めたものの快復したヴァレリーは母親であるミシェルが自分を殺そうとしたと咎め、ルカを連れてパリへ帰ってしまいます。
ミシェルとヴァレリーの間には単なる親子喧嘩ではない修復不可能な何かがあるようです。
そして次なるサスペンス風の二の矢が放たれます。
二の矢は事故か、事件か…
映画の早い段階でミシェルがマリー=クロードをある場所に車で送るシーンがあります。ああ刑務所だなとはわかりますし、その後戻ってきたマリー=クロードの口から面会という言葉も出てきます。息子のヴァンサンが何らかの罪(何かは後に言っていたかも…)で服役しているのです。
また、きのこ事件の前には、ミシェルがヴァレリーにヴァンサンが近々出所すると世間話程度に言うシーンがあり、それに対してヴァレリーはあいつはまたなにか仕出かすに違いないと吐き捨てるように言います。
ここでもなにかあるなと思わせます。そしてそのなにかが程よい時期に明かされたり、さらなるなにかにつながっていったりするのです。こういうところがうまいんです。台詞やシーン構成が絡み合って物語がつくられていくということです。
ヴァンサンが出所してきます。たしかにヴァンサンは何か起こしそうな危うさを醸し出しています。そう演出されているということです。
ミシェルとマリー=クロードはお互い子育てには失敗したと語り合っています。ミシェルとマリー=クロードはブルゴーニュの地で子どもを生み、ヴァレリーとヴァンサンは幼馴染として育ったんだろうと思います。ということからもミシェルはヴァンサンのことを気にかけているのでしょう、庭や家庭菜園の手入れの仕事を頼み、賃金としてお金を与えます。
とにかく危うい感じのヴァンサンです。頼まれた仕事はきっちりこなしているのですが、深夜に町に繰り出すシーンを入れ、危ないなあと感じるように映画は進みます。
そして、ある日、ヴァンサンはパリに向かいます。訪れた先はヴァレリーのアパートメントです。ここでははっきりと伏線とわかるシーンを入れています。アパートメントは当然オートロックですのでヴァンサンは入れません。しばらく誰かが解錠して出てくるのを待ち、そして入っていきます。その時出てきたのはルカなのです。これがサスペンス風の最後の矢になっています。
何かが起きそうとドキドキしながら見ていますと、なんと! ヴァンサンはヴァレリーに対してミシェルにつらく当たり過ぎじゃないかとミシェルのことを思いヴァレリーを諌めに来たのです。当然ながらヴァレリーはあんたには関係ないこと、余計なお世話と苛立って気を鎮めるためにタバコを吸おうとバルコニーに出ていきます。
そしてふたつ目の事件が起きます。こちらは明らかな事件で警察の登場です。ヴァレリーがバルコニーから転落して死亡したのです。ただ、そのシーンはなく、ヴァレリーがバルコニーに出ているときに、ヴァンサンがそちらへ向かうカットで終わっています。
その夜、マリー=クロードはヴァンサンにどこへ行っていたのとやや咎め口調で尋ねます。ヴァンサンは隠すことなくヴァレリーを訪ねて口論になったことを話し、転落についてはかなり曖昧に答えます。マリー=クロードは突き飛ばしたのとあたかもそうしたんでしょと言わんばかりの口調でヴァンサンに迫ります。ヴァンサンは何も答えません。
んー、どっちよ? ともやもやした気持ちを抱えながらますます映画に引き込まれることになります。
ミシェルの過去が明らかにされ…
長くなっていますので簡潔にいきます(笑)。
ヴァレリーの死は事故、事件の両面で捜査が始まり、その過程で警察の事情聴取を受けたミシェルは自らの過去をさらりと告白します。自分は過去に娼婦であったと。母娘の関係がよくなかったことから疑いを持たれていることに関してのやり取りだったと思います。それにしてもこれをさらりと進めるオゾン監督のセンスのよさを実感します。
ヴァレリーの死は事故として決着し、葬儀もすみ、ルカの父も登場し、ルカの今後が話し合われ、結果ミシェルのもとで暮らすことになります。
ミシェルにとってつかの間の平穏な日々が訪れます。ルカとの生活はミシェルの望むものですし、それをルカも喜んでいます。しかし、しばらくしますとルカが学校でいじめにあっている兆候がみられるようになります。こういうところもオゾン監督のセンスなのかフランスだからなのかはわかりませんが、実にクリアで、ルカはミシェルにいじめの原因はミシェルが娼婦であったことだと話します。
このころヴァンサンが店を出します。出所したころにミシェルにこれからどうするのと尋ねられ店を始めたいと言っていました。日本でいえば居酒屋、イギリスで言えばパブ、フランスではなんというんでしょう、ビストロでしょうか、その開店の日、店は賑わっています。ミシェルとヴァンサンが楽しそうに踊っています。それを見つめるマリー=クロードとルカ、ルカがマリー=クロードにおばさんも娼婦だったのと尋ねます。何も答えないマリー=クロード、そしてミシェルとヴァンサンを見つめる目にあたたかさが感じられるようになります。突然客の一人がババアの娼婦(字幕…)と叫びます。ヴァンサンがその客に突っかかり店から追い出します。
このシーン、いいですね。特にマリー=クロードを捉えたカットがとてもいいです。
前後は記憶していませんが、ヴァンサンが学校へルカを迎えに行くシーンがあります。やや怪訝な顔のルカですが、いじめている奴はどいつだと聞かれ、あの子たちと答えます。ヴァンサンがその集団に近づいていきます。
ここでもその後のシーンはなく、帰りのバスの中、ルカが尋ねますと、ヴァンサンは自分は刑務所帰りだと言ってこれを見せただけだとピストルを出します。水鉄砲です。ルカに水を放ち戯れる二人です。
サスペンス風の最後の矢が放たれる…
まだまだ続きます。簡潔にと思ってもいい映画ですので簡潔になりません(笑)。
ミシェル、ルカ、マリー=クロード、ヴァンサン、穏やかなブルゴーニュの日々が続きそうにみえたある日、いつものように田舎道を散歩するミシェルとマリー=クロードです。マリー=クロードがヴァンサンは開店資金をどうやったのかしらとつぶやきます。ミシェルはこともなげに私が貸したのと言います。やや険悪な空気が流れ、ミシェルはマリー=クロードを置いたまますたすたと先へ進んでしまいます。なにか気配を感じたのでしょう、ミシェルはマリー=クロードと何度も呼びながらその場に戻ります。マリー=クロードが倒れています。
マリー=ゴールドが病院のベッドに横たわっています。訪ねてきたミシェルにもうがんが全身にまわっているからダメと言います。ミシェルは知っているのねと答えます。そして、どちらからだったかは記憶していませんが、私たち子育てをうまくやったよねと言い、二人で手を取り合います。
マリー=ゴールドの葬儀のシーンがわりと長く描かれています。教会のミシェルとルカ、そこに田舎の村にしては特異にも見える集団が入ってきます。ルカが誰と尋ねますと、ミシェルが昔の仲間たちと答えます。女装に見える人もいましたのでトランスジェンダーもいたのかも知れません。
こういうセンスは大好きです。
ヴァンサンがいません。ミシェルがルカに呼んできてと言い、ルカが探し回りますと、ヴァンサンが座り込んで声を出して泣いています。この二人の間にもいいやり取りがあったように思いますが忘れてしましました(涙)。
このシーンにも冒頭の神父の説教が入っています。神父の声はいわゆるドスが効いた声でとてもインパクトがあります。意図はわかりませんがこれも演出でしょう。
そして最後の不穏の矢が放たれます。
ヴァレリーの事故死で捜査に当たった刑事がミシェルを訪ねてきます。刑事はヴァレリーの死が事故死ではない可能性が出てきたと言い、その時間帯のヴァンサンの居場所を知っているかと尋ねます。ミシェルはよく覚えていると言い、仕事を頼んでいた(だったか…)からここにいたと答えます。刑事はさらに防犯カメラ映像の画像を見せ、直前に不審な男がアパートメントに入っており、顔はフードで誰かはわからないが入れ違いで出ていくのはルカと確認できる、ルカと話をしたいと言います。
室内には緊張したミシェルと落ち着かないヴァンサン、窓越しに刑事と話すルカがいます。知っている人だったかと尋ねる刑事、刑事をじっと見つめるルカのアップがあり、そして知らない人だったと答えます。
ミシェルとヴァレリーの和解か、そして…
しばらく前からミシェルの前にヴァレリーの幽霊が現れるようになっています。幽霊はただミシェルを見つめているだけで声を発することもありません。
ある日、ミシェルはマリー=クロードの墓参りに訪れます。落ち葉を払い、花を新しいもの変えます。続いてヴァレリーの墓も同じように落ち葉を払い、花を変えていますとミシェルの隣にヴァレリーの幽霊が現れます。
二人は、というのも変ですが、手を取り合っていた、と思うんですが、記憶が曖昧です。シーンとしても和解の演出であったかどうかもはっきりしません。仮に和解を見せようとしたとしてもヴァレリーは死んでいるわけですからあまり意味はないですね。
映画はルカのアップのカットの切り替えで一気に時を数年飛ばします。
ルカはパリの学校に行っており、休暇でしょうか、ブルゴーニュに戻ってきます。ミシェルはさらに老いています。ルカに店はどうと尋ねられたヴァンサンは観光客で繁盛していると答えています。
そして、3人で森に散歩に出かけます。ヴァンサンとルカは話しながら先に進み、ふと気づきますとミシェルの姿がありません。ミシェル!と叫びながら手分けして探すヴァンサンとルカ、ルカがなにかに気づき茂みの中に入っていきます。青ざめるルカ、ミシェルが茂みの中で安らかな顔で横たわっています。そう見えるように演出されています。
映画づくりを楽しむフランソワ・オゾン監督…
フランソワ・オゾン監督はこの映画で、なにかコトが起きているシーンのそのコトを見せずに次のシーンにジャンプするという手法を頻繁に、と言いますかほぼすべての展開に使っています。
他の作品を見てもこの手法がオゾン監督の持ち味というわけではありません。そういう監督です。早い話、プロフェッショナルです。題材に応じてそれに適切な手法を使うんだと思います。そしてそのセンスがとてもいいと、私は感じています。
フランソワ・オゾン監督自身が映画をつくることを楽しんでいるように感じます。
オゾン監督のインタビュー記事を読みますとそれがよくわかります。
- filmint.: Autumn of Life: Francois Ozon on When Fall is Coming
- HEYUGUYS: Interview: François Ozon on When Autumn Falls, Brexit and the future of French cinema in the UK
この映画の発想はどこからきているかとの質問に、なんと、子どもの頃のこと、大好きなおばあちゃんが家族にきのこ料理を振る舞ってくれたことがあり、そのとき全員が病院に運ばれたがおばあちゃんだけはその料理を食べなかった、あるいはおばちゃんがみんなを殺そうとしたのかも知れないと想像したりすることがとても楽しかったと答えているのです。
外観は完璧に見える人物にも見えない何かがあるのではないかという対比に興味を持ったと語っており、これは上に書いたすべてを見せずに見るものの想像力を掻き立てるということにも通じることかと思います。
また、教会でのマリー=クロードの葬儀の場に、ミシェルが古い友達たちという娼婦たちが入ってくるシーンについては、
What I like about the scene with the prostitutes is that it’s funny but it’s very tender too. It explains many things about the solidarity between all these women.
そのシーンはとても好きです。とても面白いことですし、またとてもセンシティブなことで、そうした女性たちに近しいものを感じています。
(filmint. かなり意訳しています)
と答えています。
味わい深い大人の映画でした。