ザリガニの鳴くところ

サバイバル×恋愛×リーガルドラマ、物語の背景が新鮮で面白い

「ザリガニの鳴くところ」って、どういうことなんだろう? と、まずタイトルに惹かれます。アメリカのディーリア・オーエンズさんの同名タイトルの小説『Where the Crawdads Sing』が原作とのことで、日本では2020年に翻訳されて2021年の本屋大賞「翻訳小説部門」の第1位に選ばれています。

ザリガニの鳴くところ / 監督:オリヴィア・ニューマン

サバイバル×恋愛×リーガルドラマ

ちょっと得体のしれないタイトルとチラシの印象からホラーものかと思って見に行きましたらまったく違っていました。面白かったです。サバイバル(対自然、対人間社会の両方の意味で…)あり、恋愛あり、そして結果として犯罪が起き法廷ドラマとなり、ラストは、その判決ならそらそうだようねというちょっとだけ驚かせて(というより納得させて…)終わります。タイトルの意味は映画では(字幕では)はっきりしませんでしたが、ウィキペディアを読んで、ああそういうことねとわかりました。

映画の中で繰り広げられるドラマ自体はほぼパターンものですが、その背景となっている沼地(湿地帯)という設定がとても新鮮でした。原作はノースカロライナ州の沼地となっているようですが、映画のロケ地はルイジアナ州ニューオリンズとのことです。ミシシッピ川のデルタ地帯が使われたんでしょう。ストリートビューで見てもそれっぽいところがあります。

映画は2つの時間軸で進みます。ひとつは1969年、ノースカロライナの湿地帯で発見された青年男性の変死体をめぐる裁判の物語、そしてもうひとつは、その犯人として逮捕されたカイア(23歳くらい)の6歳からの物語です。裁判の経過とともにカイアの過去がフラッシュバックされていきます。

サバイバル

1952年のノースカロライナ、6歳のカイアは両親と4人の兄姉とともに湿地帯の一軒家で暮らしています。生活環境としては、町が近くにあり、行き来はボートが主のようです。

カイアがひとり残されるまでの経緯が説明的にさっさっさと描かれます。父親が飲んだくれて妻や子どもたちに暴力をふるいます。DVです。母親がひとりで出ていきます。その後、兄姉たちもひとりふたりと出ていきます。すぐ上のジョディが最後だったように思います。

このパートでは細部がまったく描かれませんので、母親がひとりで出て行く理由も子どもたちがなぜバラバラと出ていったのかもわかりません。ジョディだけは後半に戻ってきますので少し扱いが変えてあったんだと思います。この説明的な前段は映画の主要なテーマを恋愛にしぼるためにとった選択なんでしょう。

しばらくカイアと父親の平穏な日々が続きますが母親からの手紙で一変します。父親は手紙を焼き、母親が残していった衣服も燃やしてしまい、止めるカイアを殴ります。そして、父親も出ていってしまいます。手紙はもう戻れないという内容だったとどこかで語られて(ジョディだったか…)いました。

そして、カイアのサバイバル生活が始まります。

生活の糧はムール貝を採って町の店に売ることです。店のジャンピンとメイベル夫婦はとても優しい人たちで、裸足のカイアに教会へ寄付された靴や衣服を与えます。この夫婦はその後もカイアを援助し続けます。ただ、黒人ということでその援助も自ら抑制的にしているように描かれています。台詞はありませんが、ジャンピンとメイベルの目配せで、たとえば白人の横柄な(白人は当然と考えている…)態度にジャンピンが気持ちを押さえて応えているカットにメイベルの不満そうな顔を挿入するといった具合です。

カイアは町の人々から「沼地の女(The Marsh Girl)」と呼ばれて偏見の目を向けられるようになります。やはりこれも恋愛をメインテーマに持ってくるためかと思いますが、あまり強く偏見や差別が描かれているわけではありません。象徴的な意味で、カイアが学校へ行くも、子どもたちから差別的な言葉を浴びせられて学校を飛び出すシーンがあります。

カイアの生活は自然とともにあります。鳥や魚や草木を観察し、それを絵に書くことです。これが後に大きな意味をもつことになります。

原作者のディーリア・オーウェンズさんは動物学者ですので、おそらく原作はこのあたりが厚く書かれているのではないかと想像します。映画でももう少しカイアと湿地帯の生物との関わりが描かれているとよりサバイバル感が増したのではないかと思います。

カイア(デイジー・エドガー=ジョーンズ)も、完全に孤立した生活環境ではないにしてもやや都会的すぎます。もう少し野性味があったほうが物語的には自然だとは思います。

恋愛

カイアの俳優が子役からデイジー・エドガー=ジョーンズさんに変わり、多分15、6歳くらいの頃じゃないかと思いますが、町の青年テイト(テイラー・ジョン・スミス)と親しくなります。

町といっても田舎町ですので、このテイトは子どもの頃から沼地でよく釣りをしており、幼い頃に沼地で迷ったカイアを家まで送ったりしています。ですので、よく知った仲なのでしょうが、これは映画ですのでその出会いはちょっとだけドラマチックになっています。

人との接触を避けるカイアに鳥の羽根のやり取りを介して徐々に親しくなっていきます。読み書きが出来ないカイアに読み書きを教えます。テイトは生物学者を目指して大学へ進学するつもりでいます。父親は漁師であり、この町も湿地帯も好きだが漁師にはなりたくないと言っています。

二人の思いは次第に愛情に変わっていきます。しかし、テイトの大学への入学が決まり、別れがやってきます。別れの日、ふたりは結ばれ、そしてテイトは、○ヶ月後(忘れた)の休みには戻ってくるので浜辺で一緒に花火を見ようと約束を交わして去っていきます。

約束の日、カイアはドレスで装い約束の浜辺でテイトを待ちます。このシーン、時間経過とともにカイアひとりのカットが何カットか続き、夜、遠くの空に花火が上がったりととても美しかったです。しかし、テイトは戻ってきません。

月日は過ぎ、カイアは19歳です。町の青年チェイス(ハリス・ディキンソン)が近づいてきます。チェイスは将来有望な青年で家も裕福とのことですが、映画はそこもあまり強くは語っていません。カイアを見るチェイスの母親の蔑むような目で表現されています。

チェイスの描き方は好青年のように見せておいて最後にひっくり返す手法で描かれています。キスをし衣服に手をかけるチェイスに、安く見ないで!(訳が変じゃないか?)とカイアにはねのけさせ、一旦チェイスに謝らさせています。カイアのナレーションで彼を愛しているかどうかはわからないと入れていましたが、結局旅行に誘われモーテルで関係をもちます。カイアも幸せそうに描かれています。カイアはチェイスに珍しい貝殻で作ったネックレスを贈ります。これがラストの「衝撃」に使われています。

カイアとチェイスが楽しそうに戯れているところをテイトが目撃します。テイトは大学を卒業して町に戻り、近くの研究所で働いています。後日、カイアを訪ね、戻らなかったことを謝罪しますが取り付く島もありません。当たり前ですね(笑っちゃいけないけど笑)。テイトは言い訳をしつつ、チェイスだけはやめろと言い去っていきます。

カイアは町でチェイス家族と遭遇し、チェイスに婚約者がいることを知ります。後日、チェイスはカイアを訪ね、本当に愛しているのはカイアだけだと言います。

これ、現実的には嘘なんですが、ただ、チェイスは出会ったときから今の自分は本当の自分じゃないと、つまり両親が望むように生きるしかないんだという前ぶりがされており、この映画、恋愛ドラマに関しては結構気が使われています。いや逆か、恋愛ドラマだからこうなんですね。

さらに、チェイスに、拒絶するカイアを殴らせレイプしようとさせます。

これも強く主張されているわけではありませんが、父親のDV、人間社会からの精神的な暴力、そしてチェイスの暴力と、映画全体を通して暴力的な人間社会と自然が対比されて描かれているように感じます。

リーガルドラマ

1969年、沼地でチェイスの死体が発見されます。沼地の鉄塔から墜落し、落ちる途中に鉄塔に衝突したことが死因です。

殺人事件としてカイアが逮捕されます。理由は、鉄塔周辺には足跡もなく沼地をよく知る者の仕業と考えられ、チェイスの衣服から採取された赤い糸がカイアの家で発見された帽子と一致し、カイアがチェイスからレイプされそうになったときに、これ以上近寄ったら殺してやるとカイアが叫んでいたと漁師が証言したことからです。そしてもうひとつ、カイアがチェイスに贈った貝殻のネックレスがなくなっていることです。ただしそのネックレスは見つかっていません。

このネックレスは、ラストにオチ的に使われるのですが、チェイスはそのネックレスを肌身離さずつけていたということです。ここでもチェイスが本当に愛していたのはカイアなのだということを言っているのでしょうか。どうなんでしょう?

とにかく、カイアの容疑は状況証拠だけですのでカイアへの偏見が大きな理由と考えられます。ただ、これも映画はあまり強調はしていません。それよりもリーガルドラマとして緊張感を持たせることを重要視したようです。

トム・ミルトンは引退した弁護士ですが、カイアの弁護を買って出ます。このミルトンはカイアが幼い頃、学校へ行っていないことを知り、誰でも学ぶ権利はあると学校へ行くように促した人物です。結局、その助言も子どもたちの心ない言葉で無駄になってしまいましたが、今のカイアはテイトから文字を教わり、またテイトからの勧めでこれまで書き溜めてきた湿原の動植物の詳細な生態と図を出版社に送り、それが出版されている人物です。

この出版のためのグリーンビル行きがカイアのアリバイとなっています。チェイスが死亡した日、カイアは早朝に町を出てグリーンビルに一泊し、翌日、出版社とのブレックファスト・ミーティングに出席しているのです。

ミルトン弁護士は検察官の起訴事実をそれは状況証拠に過ぎないとして他の可能性を提示し証人からカイアに有利な証言を引き出していきます。しかし、検察官はカイアのアリバイ崩しに焦点を絞り、カイアがグリーンビルでのホテルをわざわざバス停に近いホテルに変えていることから、一旦町に戻り、チェイスを鉄塔から突き落とし、ふたたびグリーンビルに戻ることが可能であることを実証します。

そして判決です。傍聴席には、テイト、ジャンピンとメイベル、そして出版された図鑑(かな?)の著者名を見て町に帰ってきたジョディがいます。

判決は無罪です。

ところで、このシーンではないのですが、原作者のディーリア・オーエンズさんが傍聴席に座っているシーンがあるそうです。

ザリガニが鳴くところ

その後のカイアとテイトがエピローグのように描かれます。

カイアはもとの生活に戻り、テイトは研究所で学者として湿地帯の研究をしています。必然的に二人の関係ももとに戻り、テイトが結婚しようと言います。しかし、カイアはそれには答えず(だと思う)、しかし二人はその関係を保ちつつ晩年を迎えます。

カイアが亡くなります。カイアの残した書物を見るテイト、カイアが執筆した図鑑を広げますと、そこにはカイアがチェイスに送り、チェイスが肌身離さずつけていた貝のネックレスが隠されているのです。

なるほどね。と、なかなか複雑な物語でした。

で、「ザリガニが鳴くところ(Where the Crawdads Sing)」の意味です。これが正しいのかどうかは原作を読まないとわかりませんが、カイアが母親から「ザリガニが鳴くところまで行きなさい」と言われていたと語っていたのは、「Go as far as you can -– way out yonder where the crawdads sing.」ということで、つまり、そもそもザリガニは鳴かないわけですから、鳴くところというのは現実には存在しないところまで行きなさいということで、そこにはいろいろな意味が含まれているんだと思います。

人間が失ってきた野生といった意味があるかもしれませんし、映画的に言えば、人間社会から逃げなさい、さらに現実的な意味で言えば、男たちの暴力や社会の見えざる暴力から逃げなさいということも含まれているのかもしれません。

原作を読んでみようと思います。

ところで、ディーリア・オーエンズさんのウィキペディアを読みますと、何やらきな臭い(ちょっと言葉が違うけど…)話が書かれています。真偽はわかりませんので何も触れませんが一度読んでみてください。