燃えあがる女性記者たち

月にロケットを飛ばす国の女性記者たちはスマートフォンひとつで社会を変える…

インド北部のウッタル・プラデーシュ州の「カバル・ラハリヤ」という新聞社&ネットメディアを追ったドキュメンタリーです。その団体を立ち上げたのがダリトの女性たちということらしく、さてダリトとはなんなんでしょう…。

燃えあがる女性記者たち / 監督:リントゥ・トーマス&スシュミト・ゴーシュ

不可触民ダリトとカバル・ラハリヤ

インド、ヒンドゥー教におけるカースト制度という身分制度は知っていますが、そのカーストに入らないダリト(ダリット)という被差別民がいることを知りませんでした。ウィキペディアによれば約2億人いると推計されているそうです。

「カバル・ラハリヤ」はそのダリトの女性たちが2002年に立ち上げた紙ベースのニュース媒体で当初は8ページの週刊新聞だったそうです。ウィキペディアには2012年9月時点で総印刷部数約6,000部、読者はウッタル・プラデーシュ州とビハール州で20,000人と推定されるとあります。ビハール州というのはウッタル・プラデーシュ州の東側に隣接する州です。新聞の言語も公用語のヒンディー語だけではなくいくつかの方言で出版していたそうです。

燃え上がる女性記者たち公式サイト

また、カバル・ラハリヤはニューデリーのNGO Nirantar によって創刊されたとあります。実質的な運営なのか、資金援助なのかはわかりませんが、立ち上げメンバーの Kavita Devi(多分映画の中の編集長…), Meera Jatav(映画の中の中心人物…)が所属していたのかも知れません。

現在は、Chambal Media という2015年に設立されたデジタルメディア企業の傘下となっているようで、そのサイト見ますと CEO がカバル・ラハリヤを立ち上げた Kavita Devi さんですし、その組織の主要メディアがカバル・ラハリヤであることからすれば、カバル・ラハリヤがニュースメディアとして軌道に乗ってきたことから独立したということかもしれません。あるいは、機を見てのデジタルメディアへの戦略的転換ということも考えられます。

映画が描いているのも紙ベースからデジタルメディアに移行する2016年あたりのカバル・ラハリヤです。

このカバル・ラハリヤの基本スタンスは、フェミニズム、社会的弱者擁護、そして地域密着にあるようです。映画に登場する20人くらいの記者はすべて女性で、すべてが教育を受けたジャーナリストいうわけではなく、スマホの扱いから取材の仕方まで組織の核となっている人たちが新人教育をして育てていくといった組織のようです。

取材対象は、基本、地域ニュースであり、大手メディアがあまり取り上げない社会的弱者です。映画の中で取り上げられているのは、女性へのレイプや暴力、違法採掘の現状、ヒンドゥー至上主義者による選挙活動など多岐にわたっています。

燃え上がる女性記者たち

というカバル・ラハリヤの記者たち、立ち上げメンバーでもある Meera ミーラや Suneeta スニータ、Shyamkali シャームカリの取材活動を追っている映画なんですが、この映画はカバル・ラハリヤという存在と映画の出来をわけてみていかないといけないように思います。

率直に言いますと、カバル・ラハリヤの活動は称賛に値しますし、日本のジャーナリズムからみても学ぶべき点があるように思いますが、映画自体は追っかけているものが網羅的で散漫な感じです。

ただ、やむを得ないかも知れません。おそらくカバル・ラハリヤの記者たちを撮ることが目的であって、その記者たちが取材している数々の問題点を明らかにしようとしているわけではないのでしょう。カバル・ラハリヤの取材は、まずは広く知られていないことを知らせることに意味がありますので、映画の中で描かれている取材だけであっても意味があるわけですが、映画としてはそれだけではかなり突っ込み不足に感じられます。

たとえば、記者たちが取材するとき、その取材対象は男たちばかりです。女性は記者ただひとり、このとき、この映画のカメラがなければその男たちはどういう態度をとったのでしょう。おそらく警官はあんなに物静かではないでしょうし、ヒンドゥーナショナリストの男の刀もまた違った意味を持ったのではないかと思います。

この映画が迫るべきはそこじゃないかと思います。とことん突っ込んでいかなければ映画になりません。この映画のように知られていないことを知らせようとしている人々を撮っているだけではその人たちの紹介以上のものにはなりません。

これは批判ということではなくもったいないという意味です。それまで知らなかったことを映画によって知れば見た者のなにかが変わるわけですから、それはそれで大きな意味のあることだとは思います。

ただ、単純に映画の面白さとしては物足りないということです。この映画のスタンスならば、本当はもっとカバル・ラハリヤとは何なのか、そして Meera ミーラとはどういう人物で、なぜ様々な障害を乗り越えてミーラの今があるのかといった点に焦点を当てた映画にすれば、カバル・ラハリヤのことだけではなくインド社会の抱える問題がもっと切実なものとして伝わってきたのではないかと思います。

具体的な点で言いますと、レイプ事件にしても、違法採掘にしても、ヒンドゥー至上主義にしても、記者たちの取材は表面的なところで終わっているわけですが、それをもって、たとえばレイプ事件の犯人が逮捕されたとかのコメントを入れるのはどうかとは思います。

カバル・ラハリヤ、そして記者たちのもっと生活に密着したところが知りたくなる映画ではあります。