やがて海へと届く

あまりにも美しい、物語と、画と。そこから見えるもの

中川龍太郎監督は「演じる俳優」を撮るのが本当にうまいですね。この映画では岸井ゆきのさん、過去の映画では「四月の永い夢」の朝倉あきさん、「わたしは光をにぎっている」の松本穂香さん、前作の「静かな雨」は仲野太賀さんと衛藤美彩さん、どちらかといいますと女性の俳優さんがその物語の中の人物を演じているその姿を魅力的に見せてくれます。

やがて海へと届く / 監督:中川龍太郎

心のなかでは常に何かが動いている

この映画、物語として何かが大きく動くことはありません。でも真奈(岸井ゆきの)の心のなかでは常に何かが動いています。その微妙な心の動きをうまく見せているということです。

親友を失くした喪失感から抜け出せないでいる真奈の物語です。真奈は30歳くらい(だと思う)、高層ビルの高層階にあるダイニングバーで働いています。親友のすみれ(浜辺美波)は5年前に津波で行方不明になり今も発見されていません。大切な人を失くすことはどれだけ時を経ようとも忘れられることではありませんが、さらにその遺体が見つからないとなれば、その可能性がないとわかっていれもどこかで生きているのではないかとの思いも消えず、その喪失感はより大きなものなんだろうと思います。

約2時間、いろいろ仕掛けはあるにしても真奈のその思いを撮り続けた映画です。その真奈を演じている岸井ゆきのさんを見ているだけで2時間持ちます。少なくとも私には。

そして、真奈が歩くその姿を追うカットがとても多い映画です。それに応えられる岸井ゆきのさんの俳優としての強さが感じられます。

死者の見る世界を映画は描けるか

原作があります。彩瀬まるさんの『やがて海へと届く』です。

原作を読んでいませんので、彩瀬まるさんと中川龍太郎監督の、多分ライターの構成ものだとは思いますが対談形式の記事を読んでみました。

それによれば原作は章立てになっており、真奈の物語の現実描写とすみれの死後の世界描写が交互に書かれているようです。

最初と最後のアニメーションはそのうちのすみれのパートの映像表現ということなんですね。違和感ということではありませんが、すみれが津波にさらわれる描写をアニメーションで表現したんだなというくらいの、もう少し軽い感じで見ていました。というよりも、原作がどう表現されているかわかりませんが、死者の見る世界を映像で表現するのは基本的に無理ですので、どうしたってこの映画のアニメーションのように客観的なビジュアルを織り交ぜるしかなく、むしろ死者の視界よりも死者を描くことでしか表現できなくなります。仮に試みたとしても陳腐になるだけです。

このことに関して中川監督は、すみれのパートを「落としたり、ぼかして描くべきじゃない」と考えたと語っていますので、やはり難しかったということでしょう。そして一方では「映画としてのある種のうねりとか劇的な効果」が必要とも語っており、そのためにビデオカメラを使った表現を考えたそうです。

映画としての「うねり」はあるか

最初に書きましたように、この映画には物語としての大きな動きはありません。すみれと暮らしていた敦が、残されたすみれの遺品を処分し結婚すると真奈に告げたり、真奈の上司が自殺したり、真奈と同僚の聡一が付き合うことになる可能性を見せたりということはあっても、基本的には真奈には変化はありません。約2時間かけて真奈が一歩踏み出すかもしれないその変化を見せているだけです。

ですので、この映画にうねりを出すとすれば数年間の真奈とすみれの関係がなんであったかを描くことにしかないわけで、ビデオカメラが原作にないものだとすればとてもいい着想だと思います。

ただ、せっかくのそのビデオカメラの扱いが物足りないです。というよりも真奈とすみれの関係描写が物足りないです。さらに言えば、すみれという人物がうまく浮かび上がってきません。

真奈とすみれは大学入学時にサークル勧誘の場で知り合います。真奈は人付き合いに消極的、すみれは誰とでもすぐに仲良くなれる人物という設定です。真奈は歓迎コンパでお酒を無理やり飲んで気分が悪くなりそれをすみれが介抱することから親しくなります。そして、次のふたりのシーンはふたりで海を見るシーン、すみれがしばらく泊めてと真奈のもとにやってくるシーン、ペディキュアのシーン、ひとつベッドで眠るシーン、すみれが敦と暮らすために引っ越すシーン、最後の別れとなってしまうバス停のシーン、他にも就活のシーンがあったような記憶もあります。思い返してみれば結構ありましたね。

なのに物足りないと感じるのはなにか原因があるということです。映画的なうねりを出すとすれば、真奈の変化を見せるか、真奈とすみれの関係を見せるかしかないと思いますが、そのどちらともつかずに終わった感じがします。真奈の気持ちは現在描写がありますので、当時のことはわからないにしても全体として強く感じられますが、すみれは断片的に回想として描かれるだけですので、もう少し強く出すことを考えないと断片的なまま終わってしまいます。

すみれのキャスティングもぴったりじゃなかったように思います。すみれ視点の出会いのシーンから考えれば、すみれは自らの意志で真奈に近づいたように見えましたが、次のシーンからはそれもなくなっていましたので演出ミスなのか演技ミスなのか、そんな感じがします。

そう言えば真奈が拾ったポーチはすみれが落としたもののようですがどういうことだったんでしょう。ふたりの最後のバス停のシーンで中途半端なまま終わっていましたが、私がなにか見落としたんでしょうか。

ということもあり、せっかくのビデオカメラの着想も期待ほど効果的ではありませんでした。どちらの台詞だったか忘れましたが「私たちは世界の片側しか見ていない」という台詞があり、それがビデオカメラ、つまりはすみれの視点の映像で表現されるべきところなんですが、映像の使い方は美しくはあってもすみれにはこう見えていたのかといった、はっとするような驚きがありません。

爆睡する真奈の頬に触れるすみれのシーンがありますが、ああいったシーンをもっと現実感がともなったものに見せていかないともう一方の世界は見えてこないんだろうと思います。

あまりにも美しい、物語と、画と、

前作の「静かな雨」の自分のレビューを読んでいて、ああ…と思ったことがあります。最後にこんなことを書いています。

あまりにも美しい、物語と、画と、そして構成が、かえって気になり始めた中川龍太郎監督、30歳らしいです。

静かな雨

この「やがて海へと届く」はさらにこの傾向が強くなっています。中川監督自ら撮りたいと思った題材かどうかはわかりませんのでなんとも言えませんが、あまり良い傾向とは思えません。