そして彼女たちは

トルコ行進曲を聴いて涙が流れるとは…

ダルデンヌ兄弟監督はきっちりと3年毎に新作を発表してくれます。IMDb を見てみてください。なにか映画製作のためのルーティンがあるんでしょうね。

そして彼女たちは / 監督:ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ

ダルデンヌ・リアリズム

ダルデンヌ・リアリズムです。

ダルデンヌ兄弟監督の映画を見ますと、毎回なぜこんな映画が撮れるんだろうと思います。ドラマなのにつくりもの臭さがまるでありません。

若くして妊娠、そして出産した少女たち5人を追った映画です。カメラは少女たちを追い続けていても少女たちの生活や意志に介入したりはしません。これ、結構難しいことだと思います。撮る側の意識は画に反映されます。かわいそうだと思って撮ればその意識が画に表れます。

ただ撮っているだけなのに、映画はとても優しいんです。そして力強いんです。それがダルデンヌ・リアリズムです。

もちろんただ撮っているわけではありません。当然ながら様々に考えられているわけですし、被写体、あるいはそこで起きていることに対しての距離感が的確なんだと思います。

映画手法としては、ほぼすべてのシーンが自然光の中、手持ちカメラで被写体を追い続けるというドキュメンタリー手法で撮られています。

ネタバレあらすじ

ベルギー東部の町リエージュ近郊の母子支援施設が舞台です。リエージュはダルデンヌ兄弟監督の生まれ故郷でもあり、リエージュを舞台にした映画をたくさん撮っています。「ロゼッタ」や「ある子供」は、この「そして彼女たちは」で描かれている少女や少年の一組を追っているような映画でしたし、直前の作品「トリとロキタ」もリエージュの話でした。

この施設は未成年で妊娠し、出産や子育てが困難と思われる少女たちの支援施設です。映画は施設を描くことを目的としていませんので映画から想像できる範囲ですが、個室があり、食事当番もある共同生活で、施設から学校へ通ったりしています。入所可能期間はわかりませんが、出産後は一人であるかパートナーとであるかはそれぞれにしても自ら育てるか、里子や養子に出す選択をするようです。

サポートスタッフは充実しているようにみえますが、これはドキュメンタリーではありませんので皆俳優ですし、少女たちを撮ることが目的ですのでサポートも最低限の描写に抑えられています。少女たちが自ら判断するところを見せています。

こういうシーンがありました。一人の少女が子どもの父親から別れを告げられパニック状態で何時間も赤ん坊を放ったらかしにしたときに、スタッフはここは託児所ではない、あなたが子育てできるよう支援するところだと強く言っていました。

ジェシカ

ジェシカ(バベット・ヴェルベーク)は出産予定日を2週間後にひかえて大きなお腹をしています。自分を捨てた(と本人が言っている…)母親に会おうとしています。生まれてすぐに施設に預けられたと言い、母親の顔もわかりません。バス停で会う約束だったようですが母親は来ません。それゆえでしょう、余計に会うことに必死になっていきます。その描写がすごいんです。

結局、その後会うことができ、ジェシカはなぜ私を捨てたの!と母親を咎めます。母親は何も答えず、もう顔を見せないでと突き放します。ジェシカは母親の住まいまで後をつけます。その時、どうした?と男の声がし、母親は売人に絡まれただけと答えています。ジェシカが去っていく後ろ姿にその声がかぶるのです。

出産後、ベビーカーを押して母親の職場へ向かいます。なぜ捨てたの! 母親は欲しくなかったと答えます。ジェシカは自分も欲しくなかったと言い、抱きしめて!と抱きつきます。母親の腕がかすかにジェシカの背中にまわったようです。

ペルラ

ペルラ(ルシー・ラリュエル)はベビーカーを押して少年院を出所する少年を迎えに行きます。子どもの父親です。ペルラが一緒に暮らすためのアパートメントを見つけたから見に行こうと言っても就業先から遠すぎると興味も示しません。ペルラが両親に会いたいと言ってもまだ話していないとそっけなく答え、友達と会うといって一人で行ってしまいます。

ペルラには姉がいます。姉は自立して仕事も持っています。お金を借りに行きますが、子どもは堕ろすと言って借りたお金を返していない上に、事情は語られませんが結果として嘘をついたことになり、ダメと突き放されます。

お金を借りようとしたのは少年の就業先の近くで住まいを借りればお金が不足するからです。ペルラは少年を繋ぎ止めようと必死です。しかし、いくら電話をしても留守電のままです。入所者のアリアンヌ(違ったかも…)からペルラが自殺すると言っていると伝言を入れてもらいますとやっと折り返してきたものの別れようと言い電話を切ってしまいます。ペルラはパニックで失神してしまいます。

映画終盤、ペルラは姉のもとを訪れ、借りたお金の一部を手渡します。一気に不安が押し寄せたのでしょう、泣き崩れます。姉はペルラを抱き寄せ、空き部屋で子どもと二人で暮せばいいと言って抱きしめます。

この姉役は「トリとロキタ」のロキタのジョエリー・ムブンドゥさんです。その映画では18歳で演技経験はなかったのですが俳優を目指すということでした。

アリアンヌ

アリアンヌ(ジャナイナ・アロワ・フォカン)がベビーカーを押して母親に会いに行きます。母親は孫の顔を見て喜び家に入るように促します。しかし、アリアンヌは拒みます。母親はあの人はいないからと言います。渋々入ったアリアンヌですが、その後ブーツを忘れたとの男の声がして慌てて隠れます。かなり動揺した面持ちです。母親は別れるからとかもう別れたとか言うもののおそらくその状態を続けてきたのでしょう。

アリアンヌは育てるか里子や養子に出すかを迷っています。おそらく母親に一縷の望みを抱いていたのでしょう。しかし、思いは決まったようです。音楽家の夫婦と面談します。施設のスタッフが学校が終わる時間に会いに行ける約束を取り付けていました。アリアンヌからは子どもに楽器を教えてほしいと頼んでいました。

母親が施設を訪ねてきます。3人で暮らすのが一番いいと興奮気味に言い、スタッフにあなた達がいらぬ入れ知恵をしたんでしょと罵っています。アリアンヌにはまだかすかに母親に引かれるところがあるのでしょう、拒んでも控えめです。

孫にキスをさせてと言い帰っていきます。きっとこれからも同じことが続くのでしょう。

そして後日別れのときです。車に載せられたに赤ちゃんにキスをするアリアンヌ、赤ちゃんはこの上ない笑顔でアリアンヌを見ています。

ナイマ

ワンシーンだけしか記憶していません。それだけだったかも知れません。

ランチでしょうか、庭に入所者もスタッフも揃っています。ナイマ(サミア・イルミ)が鉄道会社でのインターンが決まったと感極まった表情で報告しています。ジェシカ(だったと思う…)がプレゼントを渡します。

電車のおもちゃです。スイッチを押しますと動き出します。それぞれが食器をよけて電車を通します。テーブルの端に行けばその前の人がバックのスイッチを押します。何度か繰り返されます。

皆の笑顔と子どもの泣き声です。

ジュリー

ジュリー(エルザ・ウーベン)が子どもを抱いて外出しようとしています。しかし、いざ出ようとしますとパニックに陥ります。ジュリーは薬物依存だったために外出して売人と出会うことを恐れているのです。まだ脱しきれていないということです。実際、後半になり過剰摂取で意識を失い入院することになります。

ジュリーには結婚を約束しているパートナーがいます。その彼も薬物依存だったのですが今は脱しているようです。

このジュリーのパートはややドラマっぽいつくりになっています。カットされているのか、あえて避けたのかはわかりませんが、ジュリーが売人と会うシーンや誘惑に負けてしまうシーンなどはなく、そのかわりなのかパートナーとのタンデム走行のシーンが2シーン入っており、やや作為的な印象があります。また、二人でアパートメントを見に行くシーンもありますので幸せ感を見せています。

ラストシーンへ持っていくためでしょう。二人は赤ちゃんを抱いてジュリーの恩師を訪ねます。結婚の証人になってもらうためです。ジュリーはつらい時は先生が教えてくれた詩をいつも口ずさんでいたと言います。先生はアポリネールの『L’adieu(別れ)』ねと言いピアノを弾いて歌い始めます。

J’ai cueilli ce brin de bruyère
L’automne est morte souviens-t’en
Nous ne nous verrons plus sur terre
Odeur du temps brin de bruyère
Et souviens-toi que je t’attends
(Guillaume Apollinaire, Alcools, 1913)
私はこのヒースの小枝を摘んだ
秋はもう終わった、覚えておいて
私たちはもう二度と地上で会うことはない
時の香り、ヒースの小枝
そして覚えていて、私があなたを待っていることを
(Google翻訳)

先生は赤ちゃんには楽しいほうがいいねと言い「トルコ行進曲」を弾き始めます。ジュリーたちは笑顔で体を動かし始めます。赤ちゃんも笑っていたかも知れません。

感想、考察:優しく、そして力強い

映画は少女たちの誰も非難してはいません。同情もしていません。少女たちが苦しみ、後悔し、怒り、そして自ら決断して前に進むところを捉えているだけです。

もちろんこれは少女たちの日常でありながら日常ではないつくられたドラマです。

でありながら、それをつくりもの臭くさせないのは映画のつくり手に少女たちやそこで起きていることを優しく包み込む目があるからです。

やはりジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ兄弟監督は有名俳優を使わない映画のほうがその良さが出るようです。