(DVD)池松壮亮の時代劇はいけるかも。蒼井優は現実的すぎるかな。
自主制作スタイルを貫いて、ということにこだわっているのかどうかはわかりませんが、およそ30年、そのスタイルで20本近くの映画を撮り続けているわけですから、ほんとにすごいことです。
海外での評価が高いということがモチベーションになっているのでしょう。ヴェネツィア映画祭との関係が深いようで、この「斬、」も2018年のコンペティションに出品されています。
ただ、私には、やはりこの映画を見てもピンとくるものがありません。
その一番の理由は、人の内面を表現する手法に、叫んだり、暴れたりというとてもわかりやすいヴィジュアルを使い過ぎているきらいがあるためで、それによって、それまで引きつけられていた気持ちがすーと引いてしまいます。
過去の作品も「KOTOKO」しか見ていませんので、その他の映画もそうなのかどうかはわかりませんが、この映画でも、前半はキリッとしていた都築(池松壮亮)が、突如後半になりますと、(武士としては)軟弱ものになり、苦悩に悶え苦しんだり、叫んだりと、まるで人格が変わったようになります。
これはいった何? と、見終えて公式サイトを読んでみましたら、都築は「人を斬ることに苦悩する侍」だったのですね。
もちろん見ていればそれはわかりますが、前半ではそんな感じではなかったです。
その話し方からわりとダラッとした(ペコリ)キャラがあう池松さんですが、かなり殺陣も様になっていましたし、いよいよ武士として働く時がやってきたと、シャキッとして江戸へ向かう決意をみせて、おお、池松さん、時代劇いけるじゃないと思っていたんです。澤村(塚本晋也)に誘われたときにも、自分に人が斬れるかとの迷いがあるようにはみえません。そうみえるようにつくられていません。
悪党たちにあんたたちは顔が怖いと(かなり笑った)ガンを飛ばしにいったときも、普通なら争いになって斬る斬られることになるかもしれないと想像できますわね。それでもあの余裕で行くという姿から「人を斬ることに苦悩」しているとは思えません。その後の深夜の居合い(でいいのかな)もカッコよかったです。
ということで前半はわりと集中して見られたのですが、それが後半になりますと、江戸に向かうその日、突然病に倒れてからはもう苦悩、苦悩の連続で、いったいどうしちまったの? 状態です。
苦悩の姿は見せるけれども、その苦悩がどこから来るのかみえてこないということなんですが、今、「KOTOKO」を読み返してみますとほぼ同じことを感じていたようで、いくらこんなに苦悩しているんだとその姿を見せつけられても、その前に苦悩していない時の苦悩をみせてもらわないと、あ、そうで終わってしまいます。
ゆう(蒼井優)と都築の関係もわかりにくいですね。これツッコミどころじゃないとは思いますが、あれだけ(肉体的にも)求めあっていて長く一緒にいるんですからもうとっくに関係はできているでしょう。
それはともかく、やはりゆうの方も後半の立ち位置がよくわからなくなります。前半では都築が江戸へいくということに対して死ににいくのですかと止めに入るような立ち位置でしたが、後半、弟が悪党たちに殺されたからではあっても、むちゃくちゃ強い口調で都築に復讐して! 何のために刀を持っているの! と責めまくりで、人が変わったようでした。
蒼井優さんの叫びは現実的すぎます。なんだかマジで怒られているような感じがします。
その後、都築と澤村は悪党退治にいき、都築は、澤村にお前がやれとおっぽり出され、それでも人を斬ることができず棒っきれで戦い、最後は澤村が登場して、とにかく悪党を全員殺してしまいます。その間にふたりの後を追ってきていたゆうが悪党たちに暴行されてしまいます。
なぜあそこでああなるのかはよくわかりませんが、まあそれは塚本監督のセンスなんだろうとして、その後のゆうと澤村のシーンもよくわかりません。セックスシーンにいくのかと思うくらいあやしいシーンでした。ん? いったのかな?
今、そのあたりのシーンを見直してみましたらこういうことなんでしょうか。
ゆうは暴行されたことで虚脱状態になっており、澤村に助けられて家に戻り、言葉にできぬ感情を澤村にぶつけるうちに、つまり、もみ合ううちに体を重ねセックスにまでいってしまった。
シーンとしてはその後になっていますが、都築が「私も人を斬れるようになりたい」と悶絶した後、誰かの家の外で自慰する場面があります。
あのシーンはゆうの家の外で、ゆうと澤村に関連しているのかもしれません。翌朝、澤村はゆうの家からでてきますし、ゆうも乱れた佇まいで茫然自失状態で澤村を見て立っていました。
悪党だけではなく澤村も暴力性の象徴ということかもしれません。
結局、江戸へ一緒にいくといっていた都築は山へ逃げ出し、澤村も追って山に入ります。ゆうも後を追い、澤村になぜそんなに都築にこだわるの! と尋ねますと、澤村は本気のあいつに勝ち自分を確かめると答えます。
決め台詞になっていませんが、これも、都築とゆうの非暴力性に対して澤村は暴力を強要する存在ということになるのでしょうか。
ラスト、都築と澤村の戦いになり、ついに都築は刀を抜き澤村を斬ってしまいます。都築はふらふらと山の奥へ入っていきます。ゆうの泣き叫ぶ声が山に響いて終わります。
人間の暴力性は消えることはありませんし、たとえばゆうのように復讐心でたやすく立ち上がってくるということなのでしょう。
映画としては、全体的に編集がごちゃごちゃしていて流れはよくありません。撮った方としてはそれぞれのカットに思いはあるのでしょうが、見ていて意識がつながっていきません。
結構前半の池松壮亮さんはよかったです。言っちゃなんですが、澤村は俳優さんにまかせて監督単独目線で撮ったようがよかったのではと思います。