サハラ砂漠のど真ん中でカフェを営むマリカおばさんの日々を撮ったドキュメンタリーです。監督はアルジェリア生まれの現在36歳くらいのハッセン・フェルハーニさんです。この「サハラのカフェのマリカ」で2019年のロカルノ映画祭の最優秀新人監督賞を受賞しています。
サハラ砂漠のカフェ
サハラ砂漠にカフェって、それだけでもそそられます。これです。
ただ、この画像ですと砂漠のど真ん中にぽつんと建っているように感じますが、そうではなくアルジェリアの国道1号線沿いであり、映画を見る限りそれなりに交通量もありますし、隣にはすでにあるのか建設中なのか分かりませんが、ガソリンスタンドがあります。
場所は下の赤枠あたりのようです。南北に走っている黄色い線が国道1号線で地中海沿いのアルジェリアの首都アルジェからナイジェリア方面に走っています。
カフェといっても出されるのは水とお茶(どんなものかはわからない…)とオムレツだけで、他に売っているのも映画の中ではタバコだけでした。お茶と卵(オムレツ?)で90ディナールと言っていた(自信はない…)と思います。日本円で100円くらいです。客の一人がそんなんでいいのかというようなことを言っていました。
冷蔵庫が置いてありましたが切ってあると言っていましたので発電機はあるのでしょう。ペットボトルの水が数ダース積まれていましたが、風呂や洗濯といったもの用の水はなさそうです。乾燥地帯ですので我々の感覚とは違うのかもしれません。
映画ではそうした実際の生活面がわかるシーンはありませんでしたが、携帯電話で親族(だと思う)と話すシーンがあり、割と頻繁にコミュニケーションをとっている印象でしたので、生活面では何らかのサポートがあるんだろうと思います。
それにマリカさん自身、過去にテレビや本で取り上げられている方のようです。
フレームの中のフレーム
ハッセン・フェルハーニ監督の経歴をみますと、2015-16年にハーバード大学フィルムスタディセンターの奨学金を得ているようです。ただ、割と多いパターンである、欧米以外の映画製作者がヨーロッパやアメリカで学んだ後に自国で映画を撮るといったことではなく、そもそも映画に出会ったのは、地元(アルジェ)のレンタルショップであり、タルコフスキー、アントニオーニ、キアロスタミ、カサヴェテスなどを見て学んだということらしいです。
映画からもそうしたところが感じられます。適当な言葉が見つかりませんが、いい意味で洗練されていない、あるいは荒削りと言ったらいいのか、うまくまとめようとか、評価を気にして撮っている感じがしません。
ほとんどのカットがフィックスで撮られており、室内の画はたったひとつある壁際のテーブルを真正面と真横からであり、室内から屋外を撮るカットでは必ず出入り口や窓の現実のフレームを入れた構図で撮っています。
映画というフレームの中の現実のフレームはマリカがそうやって外部を見ているということであり、逆にマリカや客を見ているのは撮影者であるハッセン・フェルハーニ監督の目線であり、面白いことに時にマリカがハッセンと呼びかけるシーンまであります。
ドキュメンタリーでこういうのは珍しいんじゃないでしょうか。被写体が常に撮影者(カメラというよりも…)を意識しているということになります。当然ながら、この映画のマリカは本音など見せていません。もちろんこの映画に嘘があるなどと言いたいのではなく、フェルハーニ監督もマリカの何かを引き出そうとしているわけでもありませんし、この映画を見てもマリカのなにか、なぜここでこの商売をしているのかとか、どういう過去があるのかなんてことがわかるわけではありません。そもそもマリカがよく知られた人物であればマリカがどういう人物なのかは皆が知っていることなんでしょう。
登場人物のうち、窓越しで刑務所の囚人の芝居をするチャウキ・アマリさんは作家であり、「Nationale1」という本の中でマリカのことも取り上げており、フェルハーニ監督がマリカのことを知ったのもそこからのようです。この本は Henri-Jacques Bourgeas さんという方がドキュメンタリーで撮っています。「国道1号線」という意味なんでしょう。
※スマートフォンの場合は2度押しが必要です
妻の話だったかをしていた男にマリカが自分の子どもの話しをし、嘘っぱちだから私も嘘をついてやったと言っていたあの男もサミル・エル・ハキムさんという俳優さんです。フェルハーニ監督の仕込みでしょう。ただそれを隠しているわけではありませんのでどういう意図かはわかりません。
移動しないものが移動するものを見る目には…
カメラが外に出ますと、また視点が変わり一気に客観性を帯びてきます。引きの画になりますので、撮影者が見ているということではなく、映し出されるものがただそこにあるといった風に視点そのものがぼやけて広がり、見る自分さえもがその中に引き込まれていく錯覚に陥ります。
この映画はそうした3つの視点が交錯して描かれていきます。映画としては未熟さも感じますし、正直決して面白いわけではありませんが、マリカおばさんがどうこうというよりも、マリカおばさんを介して、アルジェリアで生まれ育ってきたハッセン・フェルハーニ監督の何かが感じられる映画ではあります。
結局のところ、現実のフレームから外界を見ているのはマリカではなくハッセン・フェルハーニ監督ということなのでしょう。移動できないとまでは言わないまでも、移動しないものが移動するものを見る目には何が浮かんでいるのでしょうか。