恋愛もので泣かせよう、感動させようといったあざとさがなく、まあまあ好感が持てる映画ではありました。自然光、手持ちカメラ、アドリブ、正確にはアドリブではなく、北川悦吏子のシナリオを北乃きいと岡田将生が咀嚼して自分の言葉にしたのだと思いますが、それらツクリモノ臭さを取るための三点セットを駆使して、北川悦吏子、岩井俊二、小林武史の三人で撮った映画といった印象です。興行的にも悪くなさそうですし、トータルには成功している映画だとは思います。
ただ、如何せん、テーマがいかにも時代をとらえていなく、脳天気な感じがします。逆にいえば、そういうところが北川悦吏子らしく、と言っても、ロングバケーションとかのTVドラマを見たことはなく、どんな本を書く人なのかもよく知らないのですが、人気TVドラマの脚本家という日々メディアから再生産されるイメージから想像するに、どこか予定調和的で、どこまで行っても大したことは起きないだろうという安心感に、どこか癒され、気持ちよい感じがするのかもしれません。
もう一つ、見てひと月ほど経つ今は、映画における言葉の持つ意味を考えさせられています。当然、言葉、台詞というものは、映画においても、重要なるひとつの要素であるわけですが、ああいったこの映画における言葉の使い方、俳優の日常的(に見せかけたよう)なレベルまで落とし込んでいった、電車に乗っていれば、隣の若者たちから聞こえてきそうな、いわばベタな日常感覚の吐露のような言葉の使い方で映画を創ることに意味があるのだろうか?と思います。
やはり、映画は、仮にその言葉が日常的に使い古されているものであっても、ある特別な使い方をすると、全く違った意味を持ち、輝き始めるといった、そういう感動を生み出してこそのものではないかと思います。つまり、極めて自然であっても、そこにもう一度見たい、もう一度聞きたいという言葉もシーンもなかったということになります。
そのあたりことは、「ハルフウェイ」というタイトルのネーミングに象徴されているように感じます。
最初、halfwayをそう読ませるあざとさに何かいやなものを感じたんですが、なんでも、北乃きいが撮影中に本当に「ハルフウェイ」と間違えたという逸話が紹介されており、本当かな?と思いつつも、まあそれならありかもと納得しかかりましたが、しかし、よく考えてみると、非日常的に聞こえる「ハルフウェイ」という言葉が、実は、ふとした偶然、つまり日常的な場面から生み出されたとというストーリー付で宣伝されているわけで、いうまでもなく、そこには、監督あるいは製作側の様々な計算が働いているわけです。ここはやはり、あえて脚本家としての北川悦吏子の本領発揮というべきタイトルにしてほしかった思います。