サラの鍵/ジル・パケ=ブレネール監督

を見て、あまりにも自分自身が過去や歴史に無関心、無頓着だと思い知らされる前半は、胸が締め付けられるような緊迫感の中で物語は進んでいきます。

1942年に戦時下のパリで起きたヴェル・ディヴ事件というものがベースになっています。全く知りませんでしたが、ナチスの占領下であったとはいえ、13,000人に及ぶユダヤ人が、ナチスではなく、フランス警察の手によってドイツの強制収容所に送られるという史実があったということです。昨年公開された「黄色い星の子供たち」という映画も、同じ史実を描いていることも今知りました。


『サラの鍵』予告編

ユダヤ人のサラ家族が、いきなり警察に踏み込まれるシーンから始まります。すでにそういった噂があったのでしょうか、母親には不安感が浮き出ています。10才(くらいでしょうか)のサラは、機転を利かせ、弟を納戸に隠し、鍵をかけます。ところが、母親とサラは、そのまま連行され、家を空けていた父親も同じく連行されてしまいます。

どれくらいの日にちが経ったのか、映画は明確には示していませんが、サラは、様々な苦難にあっても必死で家に戻ろうとします。そして、ついに収容所を脱走し、フランス人の老夫婦に助けられたサラは、家に戻り、納戸の鍵を開けます。

弟がどうなったかは映画を見てください。というより、この映画、弟がどうなったかより、そのことによって、その後のサラがどう生きたかということと、偶然(実は偶然ではないのですが)、その部屋(アパート)に住むことになった現代のジャーナリスト、ジュリア(クリスティン・スコット・トーマス)が、サラの過去を探り出すことに執着することの方にポイントが置かれていると思います。

サラが納戸の鍵を開けた後、映画は後半に入るのですが、隠された60年前の真実を追いかけるジュリアの行動は、少し異様とも思えるほどです。そこまで根掘り葉掘り過去をほじくり返してどうするつもり? 見ていて、そう思わせます。

多分、それがジル・パケ=ブレネール監督の狙いなんでしょう。

パリ、ニューヨーク、フィレンツェ、そして再びニューヨークと、隠されたサラの過去を追って飛び回るジュリアは、40代だと思いますが、産むか産まないかを迷っている子どもがお腹にいます。不妊治療をするほどに子どもをほしがっていたのですが、妊娠を知り、喜びを分かち合おうと打ち明けた恋人(夫?多分フランスだから曖昧というかどっちでもいいのでしょう)は、冷たく、もう自分はおむつを替えたり、夜泣きに耐えたりするほど若くないと産まない選択を望みます。

結局、ジュリアは産むことを選択し、ひとりで育てることになるのですが、ジュリアのこの迷いの過程があるからこそ、この映画は、単に過去の史実を語るだけに終わっていないような気がします。やや強引とも思われる後半の展開や子どもにサラという名前をつけたりするのも、ジュリアの視点を考えればまあ納得のいくものと言えます。

それにしても、正直なところ、これだけ過去や歴史にこだわる価値観には、個人的に違和感を感じますが、逆に言えば、自分(あるいは我々?)は、あまりにも過去や歴史に無関心、無頓着なのではないだろうかと考えさせられます。