NINIFUNIを見て、もし映画が力を持ちうるとしたら、その原動力は何だろうと考えさせられる
この2本が並んでいるのも妙な感じですが、たまたま2本立てで見ることになっただけで特別意味はありません。
アコースティック/ユ・サンホン監督
何となく見ただけとは言うものの、韓国の音楽映画らしいと知り、ひそかに「GO GO 70s」のような熱い青春音楽映画を期待したのですが、何ともつかみどころのない映画でした。
映画というにはすべてに突っ込み不足で焦点が定まっていませんし、TVドラマにするにも一般受けするドラマ性が不足しているように思われます。ひょっとしていわゆる韓流スターが出ている?あいにく全く分かりませんが、もしそうなら、単なるアイドル系映画にはない、ちょっとしたひねりもありこれでいいのかもしれませんね。
で、本命の真利子哲也監督のNINIFUNI
「NINIFUNI」というタイトルは、仏教から来ているらしく「而二不二」と書いて「二つであってしかも二つでない」という意味らしいです。宮崎将演じる男の行動とアイドル「ももいろクローバー」に関する事象(なぜこの語句かは?)が何かの裏表だってことなんでしょうか、今いちよく分かりませんが…。
で、物語は、
殺風景な地方都市である事件が起こる。事件に関係した青年(宮崎将)は車を奪い逃走。人気のない海岸にたどり着いていた。数日後、ももいろクローバーのプロモーションビデオ撮影隊が海岸を訪れ、青年の車を発見するが……。(NINIFUNI (2011) – シネマトゥデイ)
と言うことなんですが、この映画、むしろそうしたことより、映画が力を持つとしたら一体どういう要素からなのかといった、映画の原点みたいなことを考えさせられる作品でした。
まず何をおいても重要なのは、何を撮ろうとしているのかという明確な意志でしょう。テーマとかそういうことではなく、もっと直接的な、この人間の熱が撮りたいとか、この風景の凶暴さが撮りたいとか、そういった意味の明確な意志のことです。
そして次に(といっても順番に意味はないですが)、俳優の存在感。宮崎将にはそれがあります。自分に向かってくるカメラに対峙するだけの力があります。「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」でも相当なものでしたが、この映画でも彼でなければ成立しないような力があります。
そして音。全くの無音も含め、ノイズ、音楽は人間の感情を刺激するとても大きな要素であり、映画においても、音は映画の力に大きく関わってきます。もちろん、映像との関わりにおいてという意味であることは言うまでもありません。
この映画で言えば、冒頭のカメラに向かって歩いてくるふたりの男のシーンなどいくつかのシーンで使われている道路を疾走する車の走行音は極めて暴力的であり、その効果を意識的に利用していると思われます。
などなど、42分という中編でありながら、私にはかなり見応えのある映画でした。