その夜の侍/赤堀雅秋監督

俳優の熱演が映画的カタルシスまで昇華されていないという…

自分自身が興味を失っていることもあるのですが、ここ名古屋ではすっかり小劇場的な演劇の話題を耳にすることがなくなりました。「THE SHAMPOO HAT」や「赤堀雅秋」さんの名前もこの映画で知りました。赤堀監督、いきなりの長編デビューですから、相当期待されているんでしょうね。

確かに「その夜の侍」のネーミングにセンスの良さを感じますし、出来上がりの評価も随分高いようです。ですが、私はなかなか集中力を持続できませんでした。シーンごとは「面白いなあ」「うまいなあ」と感じることも多く、ぐっと引きつけられたりするのですが、次の瞬間、ふっと冷めてしまう、引っ張っていってくれる何かが足りない、そんな感じでした。

映画的なリズムが感じられないと言えばいいのでしょうか、全てのシーンに力が入りすぎていて、かえって平板な感じがします。創り手が何を追っかけているのかよく分からなくなります。もちろん「他愛のない話がしたい…」が意図的に使われていますのでそれがキーなのは分かりますが、他愛のない話をできるような人物はひとりも出てきません。皆訳ありで、すべてのシーン、すべての人物が皆意味ありげです。主役であろうが脇役であろうがすべての人物が同じように扱われています。たとえば、堺雅人演じる主人公の鉄工所で働く久保(高橋努)やホテトル嬢(安藤さくら)があんなにも立つ必要があるのでしょうか。警備のアルバイトをしている女(谷村美月)でさえ訳ありの人物に描かれています。

そうした演出は演劇ではよくあることですし、一概にマイナスになるとも言えません。何せ演劇は最終的には俳優のものであり、演出の良し悪しとは別次元で俳優の力でリズムを生み出すことが可能ですが、映画の場合はそういうわけにはいかないでしょう。

映画の場合、俳優の熱はいったんはフィルムに閉じ込められ、それが再び生気を取り戻すのは、監督あるいは編集権を持つプロデューサーにより、もっとも適切なリズムのもとに編集された時に限られるわけですから。

この映画、俳優の熱演が映画的カタルシスまで昇華されていないということでしょう。