この映画は、原作に比して、温度が低く、湿度が高い
これは佐藤泰志「そこのみにて光輝く」とは全く別の「そこのみにて光輝く」ですね。
決定的なことは、原作の達夫は、映画のように目の前で人を死なせてしまった自責の念で無為な時間を過ごしているわけではなく、自らの意思と決断で造船所を退職し、何もしない今の自分を受け入れているということです。
もちろん、原作と違うからといってその映画がダメということはありませんが、原作のどこに引かれて映画化したかは問われることですので、そうですね、この映画はどこなんでしょう?
そもそもの企画がどこから立ち上がったか分かりませんので何とも言えませんが、公式サイトや宣伝を見る限り、やっぱり達夫(綾野剛)と千夏(池脇千鶴)のラブストーリーでしょうか。「男は彷徨っていた、生きる場所を探して− 女は諦めていた、生きる場所を探すことにー」なんてコピーは、そうですね、間違っちゃいませんね。
ただ、確かに、物語としては、達夫と千夏のラブストーリー的要素もあるのですが、それよりも、佐藤泰志さんのこの小説の持ち味はハードボイルドだと思います。達夫は、感情を表に出さず、自らの意思で行動し、なにものにも(ちょっとオーバーか?)妥協しない強い男です。千夏と一緒にいる時に昔の同僚と出会うシーンや千夏の元の男に話をつけに行き、殴られても手出ししないところは典型的です。
千夏も同じ種類の人間です。体を売って一家を支え、脳梗塞(だったかな?)で倒れた性欲のみ旺盛な父親の性の処理をするわけですが、泣き言を言うこともなく、心の中を明かすことなく、じたばたすることなく現実を受け入れています。
それを記述する文体は、個人の感情をほとんどまじえない、客観的な事象を短いセンテンスで積み重ねるスタイルで、逆に、あるいはそれだからこそ、そこから哀感や切なさがにじみ出てくるわけです。
話戻って人物像ですが、そうした二人とは異なり、唯一、千夏の弟拓児だけが感情を表に出す人物で、だからこそ彼が物語を進める役割となっているわけです。
こうした原作の人物設定が映画では全く違っています。あ、いや、千夏はそうでもなく、割とハードボイルドでした。ただ、かなり現代的な女性で、男などいなくても生きていける強さがありましたが、原作の千夏は、気丈に見えても、男あっての女として描かれています。映画は、時代背景を現代(多分)においていますので、そうした原作の人物像をそのまま持ってきたら、リアリティのないものとなってしまうと考えたのかも知れません。ハードボイルドと言えども、この二人、日本的に言えばどこか演歌的でもありますし。
原作の時代は、多分、造船所での労働争議や赤旗、老アナーキストなんて言葉が出てきますし、千夏が自分の家をサムライ部落と言っていますので、60年代ではないかと思います。発表されたのは1989年、亡くなる一年前です。バブル絶頂期にこの作品を書いているわけで、時代との齟齬(この言い回しあってるかな?)の大きさを感じさせ、痛々しくなります心が痛みます。
ということで、映画化の判断としては、まず現代の話として描くことを優先し、人物をより受け入れられやすい、つまり、時代に立ち向かうような人物像ではなく、弱さを見せることも恥じない、逆の意味での現代的な強さとして描いたと考えるべきなのでしょう。
ただ、そうした様々な事情があるにせよ、この映画は、原作に比して、温度が低く、湿度が高いと感じます。
- 作者:佐藤 泰志
- 発売日: 2011/04/05
- メディア: 文庫