フランスを目指した(かどうかは本当のところ分かりませんが…)はずが日本に舞い戻ってしまったのでしょうか?
2012年「くじらのまち」でPFFグランプリを獲得し、出品したベルリン映画祭で「フランス映画のようだ」と評された鶴岡慧子監督が、PFFスカラシップで撮った初の劇場公開作です。
確かに「くじらのまち」は、無駄なところのない、よく練って作られた映画でした。三人の高校生の微妙な心の揺れ、あるいは揺れないところがうまく撮られていた印象があります。この映画も期待できそうです。「過ぐる日のやまねこ」タイトルもいいですね。
都会の喧騒から逃れるように、幼少期を過ごした田舎町に向かった21歳の時子。いつかそこを出ていく日を待ちながら、孤独にキャンバスに向かう高校生の陽平。緑深い山の中、長年放置されていた小屋で偶然に出会ったふたりは、かけがえのない人を失った者同士、互いの気持ちに感応し、癒されていく。そして失われていた記憶が蘇る時、ふたりを取り巻く「死」の真実が明らかになる——。(公式サイト)
と、思ったのですが、「あら、違った方へ行っちゃったのね」といった感じです。
この作品を見ますと、鶴岡慧子監督が「くじらのまち」で見て欲しかったのは、「青春」よりも、むしろ「まち」の「喪失」感の方だったのかもしれません。
この映画の主人公、時子(木下美咲)も陽平(泉澤祐希)も、共に拠り所としていた人を亡くし前に進めないでいます。時子の失くしたものは、13年前に亡くなった父であり、自分自身の13年間です。陽平の失くしたものは兄と慕っていた和茂です。
その二人が出会うのが、今は空き家となっている時子の育った家で、時子の父はそこで絵を描いていて、理由は語られませんが、ある時、死を、それも時子を連れての心中をはかったようです。
陽平は、美大志望で、木材業の跡を継いで欲しいと願っている(ようだ)父に、そのことを言い出せないでいます。和茂が(自殺で?)亡くなったのは三週間ほど前で、陽平はそれ以来、和茂から「ここで絵をかけ」と言われた時子が育った空き家へ入り浸っています。
というのがこの映画の基本設定であり、その二人の一歩前に進む姿を描こうというのが構想なんだろうと思いますが、そもそも基本設定自体が考えすぎて深みにはまり過ぎているように思います。
要は、設定自体に作られ過ぎ感が強くシンプルさを欠いているということです。
「くじらのまち」では、兄の失踪がまち(飛田桃子)のどこか遠くを見ているような人物像に生きていましたが、この映画の場合は、二人の喪失感が作りものくさく、いや違いますね、喪失感が作りものくさいのではなく、喪失そのものにリアリティがないということだと思います。
時子の父の死も、和茂の死も、何とも曖昧で、二人がなぜ死を選んだのか、映画自体そのことに興味を示しているようには見えません。喪失自体にリアリティがなければ、喪失感に説得力は生まれないでしょう。人の死などいつも意味不明ではありますが、やはりここは映画ですから、その人物が死を選んだ影のようなものを見せておかないとその死にこだわる人間に真実味は生まれてきません。
これを言っちゃ身も蓋もなくなりますが、父の死も和茂の死も、それに時子の上田行きでさえ、ドラマのためにわざわざコトを起こしているようにしか見えません。無理やりコトを起こせば、結局、村の住民が居酒屋で飲みながらそのコトを説明するという、良い映画を目指すのなら絶対やっちゃいけないタブーを犯すことになるのです。
ちょっときつくなりましたが、それでもやはり鶴岡慧子監督、高校生の描き方はうまいですね。陽平と同級生のアキホ(中川真桜)のシーンは良かったです。まあパターンは「くじらのまち」と近いとも言えますが、そうしたところをもっと極めればいんじゃないかと思います。
ああそうそう、見ながらこれは書いておこうと思ったことがありました。
例えば、バス、バス停、バスの終点。あれは嘘っぽすぎるでしょう。あの終点から時子の家の近くまで乗り継ぐバスが以前にはあった? そのバスでアキホは学校へ通い、幼なじみの陽平は自転車で時子の家に入り浸る? 一体どういう位置関係にあるのかイメージできません。アキホの乗車と降車のバス停も不可解です。
陽平の父親が夕飯を用意したのはまだ陽が出ている時間で、後で食べると陽平は飛び出して時子の家へ向かうがすでに辺りは真っ暗。陽平の家と時子の家は一体どれだけ離れている?
重い雲がどんよりと立ち込める雨の中バス停に立つアキホ、次のアキホのシーンではすでに陽が差しています。
陽平が和茂の骨壷を持って自転車を飛ばす、なぜか分からないですが、途中で自転車を放り出し駆けて行きます。後に父親が車で自転車を見つけるのが林道(と言っても舗装してある)へ入る手前のセンターラインのある(田舎では)幹線道路、なぜそこで自転車を放り出す?
まだあったと思いますが、いろいろ制約はあるにしても、こうしたことを疎かにすればどんなに才能のある監督でもいい映画にはなりません。
そうした時間と空間の設計ができていないことも、この映画をどこかふわふわとした曖昧なものにしている原因のひとつでしょう。