家族、抑圧的な父親、それによって起きる悲劇、無差別殺人、この設定が古臭くありませんか?
「その夜の侍」を見ていますが、この「葛城事件」を見に行ったのは、それが理由ではなく、昨日でしたか、一昨日でしたか、三浦友和さんが阿川佐和子さんのインタビュー(6/24 間違いです 何だったか忘れました)を受けているテレビを見て、なんとなく三浦友和さんにいい印象を持ったからです。
同世代の俳優さんですが、俳優三浦友和というよりも、やはり山口百恵さんの夫という印象が強く、考えてみれば、その出演作も「伊豆の踊子」くらいしか見たことはないと思います。
金物屋の後を継いだ清は、理想の家庭を作ったはずだったが、思いの強さは、家族を抑圧的に支配するようになる。 長男・保(新井浩文)は、従順でよくできた子供だったが、リストラを誰にも言い出せずにいた。次男・稔(若葉竜也)は、ことあるごとに清に責められ、理不尽な思いを募らせている。清に抑圧されてきた妻の伸子(南果歩)は、ある日、稔を連れて家出する。葛城家は一気に崩壊へと向かっていく。(公式サイト)
映画は「その夜の侍」とほぼ同じ感想です。
ひとつひとつのシーンは結構惹きつけられるところも多いのですが、結局全体として、で、何なの? という、テーマの不明確さを感じる映画です。
そもそも「家族」、そして「抑圧的な父親」によって起きる悲劇、「無差別殺人」、この設定が古臭くありませんか?
映画が常に現代的テーマを扱わなくてはいけないわけではありませんが、すでに過ぎたことを、今起きていることであるかのような描き方は、見ていても苦痛です。
もちろん、こうした家族、家庭が、今あるかないかの話ではなく、今起きている無差別殺人は、すでにこうした家族関係が崩壊した後の人間関係の中で起きていることですし、こんな単純化された家族自体がすでに今のものではないでしょう。
この家族関係は80年代くらいのものじゃないでしょうか。
登場人物は、「その夜の侍」よりも、人物配置に奥行きといいますかメリハリはあったように思いますが、個々の人物は、やはり単調です。
父親清(三浦友和)には迷いが見られず、実際にこういう父親がいるとすればこんな感じだろうとは思っても、やはりそれでは映画にならないだろうと思い、どこか絶望感のような、どうしようもないやるせなさみたいなものが必要だと思いますし、妻伸子(南果歩)は、あれでは単なる腑抜けな人物に見えますし、稔(若葉竜也)は、無差別殺人を起こすほど、(映画的に)追いつめられているとは思えませんし、ただ唯一、保(新井浩文)だけは説得力が感じられる存在ではありました。
多くの台詞が、誰も反論できないような、いわゆる本音とも言える一方的な言いぱなしであることも、映画を静的なものにしている原因だと思います。
ということで、この映画も(その夜の侍と同じく)やはり映画的ではなく、俳優の熱演を映画的カタルシスに昇華できなかったのだと、私は思います。