失われた20年に青春時代をむかえた世代の「憂鬱」、あるいは「絶望」の映画なのでしょう
こうしたテーマをこうした手法で表現することに、映画は向いていないですね。
こうした、こうしたでは訳がわからないと思いますが、ある種観念的な概念を現実的なものに象徴させたドラマ、簡単にいえば、作り物くさいドラマということです。
文字どおり、果子と未来子は、「過去」と「未来」を象徴しているのだと思いますが、観念的に組み立てられたドラマを映画に持ち込みますと、多くの場合、様々な関係、この映画の場合は人間関係ですが、それらが動きのない平面的なものになってしまいます。
過去と未来が隣接する物語。主演は二人の女優。未来子役は小泉今日子。そして果子役には二階堂ふみ。自分が本当の母親だという未来子の出現によって、退屈していた女子高生の果子は、眩い生き生きとした世界を見てしまう。そんな二人のひと夏の物語だ。まるで夏休みに宝島を探しに行くような、可笑しくも切ない、愛と孤独と成長の物語が誕生した。(公式サイト)
単純に言えば、「過去」のせいで、このしょうもなくも無意味な「現在」があり、不機嫌に生きるしかないとするならば、果子は最後まで「不機嫌さ」を演じなくてはならなくなり、「未来」が多少の希望はあっても、つかみどころのない不確かなものだとするならば、未来子はどこまでいっても、すでに何の突破口も見いだせないであろう爆弾にしがみつき、社会からドロップアウトした存在であるしかなくなります。
映画が得意とするのは、たとえば、そうした世界認識があるとするならば、それを提示するだけではなく、そこから脱出しようとする人間を描くことであり、仮に挫折するにしろ、その過程を描くことだと思います。
ただ、こうしたテーマのこうした描き方を否定しているわけではなく、あくまでも映画に向かないと思うだけで、じゃあ何に向いているかといえば、間違いなく「演劇」でしょう。
ベケット以来、「不条理」を描くのは演劇の得意とするところであり、前田司郎監督が演劇を自分の持ち場(よく知らないので多分)としている映画監督であるのは納得のいくところです。
演劇はなぜこうした不条理な世界観を描くことを得意とするのでしょう?
多分それは、演劇においては、たとえ内容が不条理であっても、生身の人間がそこにいることによって、その場自体は不条理でなくなるからでしょう。言い換えれば、映画はすでにそのもの自体が不条理ですので、不条理を描く方法論としては、ファンタジーかおバカ映画くらいしかないのではないでしょうか。
どちらにしても、生身の人間は不条理な世界では生きられないということです。
監督は石井岳龍さんですが、「生きているものはいないのか」を見た時のブログを読み返してみますと、ほぼ同じような意味合いのことを書いています。
話変わって、二階堂ふみさんの売れっ子ぶりには驚くばかりですが、器用で勘がいいのでしょう、こうした無意味な切り返しの多い役は器用にこなして、一見うまく見えますが、ためがなく一本調子でメリハリがありません。
その点、兵藤公美さんはこういう小芝居に鍛えられてきているのか、うまいですね。ただただ意味もなく豆の皮をむき続けるしかない「現在」、未だ名前をつけることもかなわない動かない赤ん坊に乳を与え続けるしかない「現在」(だとするなら)がうまく演じられていました。
「過去」と「未来」について言えば、未来子は「未来」といっても、すでに一度失敗した(死んだ)焼き直しの「未来」ですし、その未来子が実の母だと言われる果子にしてみれば、すでに自分自身が失われているわけですから、希望など抱けるわけもなく、「憂鬱」、そうですね、実は二階堂ふみが演じるべき「不機嫌さ」は、あの「不機嫌」ではなく、「憂鬱から生まれる不機嫌さ」であるべきだったのでしょう。
結局、この映画は、それぞれが意味するところを読む映画と言えますが、あえて何を感じるかと言われれば、「失われた20年」に青春時代をむかえた世代の「憂鬱」、あるいは「絶望」の映画と言えるのではないでしょうか。