グルジアとアブハジアの境界、悠久の大河エングリ川よ、人の争いなどきれいさっぱり流し尽くしてくれ…。
ジョージアは、「やさしい嘘(リンクは「バベルの学校」)」という映画を見て以来、気持ちの中だけですが、妙に親近感のある国です。最近では「放浪の画家ピロスマニ」という映画も見ています。この映画、良かったです。「当サイトおすすめ映画」に上げていましたが、次のおすすめ映画に押されてトップページから消えてしまいました。
昨年の4月までは、公式の呼称がグルジアだったのですが、ジョージアに変わってしまいました。私にはグルジアの方が耳障りはいいのですが、グルジアはロシア語読みで、ジョージアは英語読みということで、国連などほとんどの国が英語読みを採用しているとのことです。グルジア語では「サカルトベロ」というようです。
ジョージアと独立を主張するアブハジアは、1992年以降、激しい戦争状態にあった。両者の間にはエングリ川が悠々と流れている。春の雪解けとともにコーカサス山脈から肥沃な土を運び、中洲をつくる。アブハジアの老人と孫娘は、昔からの風習のとおり、中洲に小舟で渡り、小屋を建て、土を耕し、とうもろこしを育てる。ある日、傷を負ったジョージア兵がこの島へ逃げこんでくる…。(公式サイト)
で、映画は、かなり期待して見に行ったのですが、んー、ちょっとばかり、よく分からない映画ですね。
ジョージアとアブハジアの境界、エングリ川を挟んだ対立が背景にあるのですが、この紛争(戦争)自体を知りませんでした。ただ、映画は寓話的であり、両国(両民族)の兵士が登場し、時に銃声も響きますが、具体的な争いとは無縁に映画は進みます。
ジョージア側の負傷兵が紛れ込んできたり、アブハジア側の兵士が捜索に来たりしますが、特別事件というほどのことが起きるわけではなく、描かれているのは、自然の中の人間の営みということだと思います。
中洲を耕し、種を撒き、とうもろこしが育つ期間ですから、長くて半年くらいでしょう。その間の老人と孫娘の生活の一端が淡々と続き、そして、ラスト、大雨と洪水によって、老人も娘(は多分)もとうもろこしも、あっけなく流されてしまいます。
ひとことで言いますと、「人間同士の争いの中にあって、悠久の大河は変わることなく流れ続ける。」ということでしょうか。
ただ、流れ去るのは老人と孫娘であって、兵士たちではありませんので、そこに、ある種、監督の願い、願わくば、争いそのものを流し去ってくれという気持ちが託されているのかも知れません。
で、よく分からないというのは、老人と孫娘の生活自体は淡々としているのですが、ほとんどのカットが何か意味ありげに撮られているのです。
主に二人の視線ですね。誰かがいるかのように視線を投げかけたり、振り返ったりするカットが頻繁に出てきます。
それに、意図的にでしょうが、ほとんど台詞がありません。「草原の実験」ほど極端ではありませんが、言葉を交わせばいいのにと思うところが、これまた頻繁にあります。そうした作りも、何やら意味ありげに見える原因でしょう。
少女を見る目が、何だか嫌ですね。やたら透ける衣装を使っていますし、撮りての目線に嫌な感じを受けます。考えすぎでしょうか。
この内容の、この作りの映画であれば、そうした意図的なことを排して、川の流れを強調しつつ、寡黙に働く人間を丁寧に撮っていけば、それで映画になるのに、と私は思います。
「みかんの丘」も見てみようとは思っています。