さすがにこの邦題はまずいでしょう、ミスリードし混乱させます。
これは邦題への風当たり強いよなあと、まずは見終えてのの感想(笑)。
宣伝担当者は何を考えたんでしょうね? 散文系のタイトルが流行っているから? ラブストーリーのほうが客が入る(かどうかは知らない)から? 感傷的な言葉で高齢者を釣ろうとした?
原文は、If it’s rainy, You won’t see me, If it’s sunny, You’ll Think of me. らしいです。デイヴィスの妻が生前に車のサンバイザーに貼っておいた付箋に書かれていた言葉です。
映画的文脈で考えれば、「雨の日には私(サンバイザーの裏の付箋)に気づかないだろうけど、(せめて)晴れの日には私のことを考えてね」といったところでしょうか。意味が全く違いますし、それがちらりと出るシーンもラストですし、映画的にタイトルにするほど決定的なものじゃないです。
監督:ジャン=マルク・ヴァレ
デイヴィスはウォールストリートのエリート。会社へ向かういつもの朝、交通事故で妻を失った。しかし一滴の涙も出ない。彼女のことを本当に愛していたのか?デイヴィスは身の回りのあらゆるものを破壊しはじめる。会社のトイレ、パソコン、妻のドレッサー、そして家さえもあらゆるものを破壊していく。(公式サイト)
ちなみにその文章や単語を英語サイトでググってもその言葉に触れているサイトは(今のところ)ありません。
で、どういう映画かといいますと、単純に考えれば、妻ジュリア(ヘザー・リンド)が私の方を見てと必死に付箋に書いてまで訴えていたのに、デイヴィス(ジェイク・ギレンホール)は、ジュリアが死んで、さらに自分の周りのあらゆるものをぶっ壊して(原題 Demolition)それでも気づかず、やっと自分が裏切られていたと知って初めてジュリアを近しく思ったという何とも身勝手な男の悲しいお話です。
ただ、なかなか主題がつかみづらい映画です。
理由は色々ありますが、邦題に惑わされ、カレン(ナオミ・ワッツ)との関係が主題だとそもそもの出だしから見間違う(笑)、通常窮屈な日常からの開放が主題であれば破壊行為は一発か二発くらいで次の段階へ進むのに延々と破壊が続く、時々挿入される笑いを誘うシーンを掴みかねる、逆に叙情的に描かれる海辺やメリーゴーランドのシーンの意味を掴みかねる、それに映画のつくりとしても、回想シーンや妄想シーンが挿入されたり、ちょっとしたカットをあれ?なんだっけ?と見逃したりします。
ある日の朝、妻の運転する車で会社に向かったデイヴィスは事故にあいます。妻は亡くなりますが、自分はほとんど怪我もなく病院で目覚めます。ぼんやりしたまま、自動販売機で m&m’s を買おうとしますが、引っかかったまま落ちてきません。
デイヴィスは、妻を喪っても悲しみを感じない自分を持て余し、自分は妻を愛していなかったのではないかと自分自身に違和感を感じ始めます。
そうした気持ちが、ひとつは m&m’s への執着心として現れ、葬儀の日、自販機の管理会社に手紙を書きます。手紙には苦情ではなく、自分自身の素直な気持ちを書き綴り、その後も何通か送り続けます。これがその会社の苦情係カレンと息子クリスとの出会いとなり、ひとつの物語を作っていきます。
もうひとつは、破壊衝動として現れ、あらゆるものを壊し始め、解体屋の手伝いまで始めます。最後はカレンの息子クリスとともにショベルカーまで買い込み、家ごと破壊してしまいます。ただ、これはあるいは幻影かもしれません。ラストシーンでは家がそのまま残っていたようにも思います。
そう考えれば、あるいはカレンの物語全部がデイヴィスの見る幻影や妄想かもしれません。何シーンかある電車のシーンも何となく不自然ですし、そもそも電車で通っていたの?とも思います。
カレンには自販機会社の社長という恋人がいるのにその出張中にカレンの家に入り浸り、それでいて、カレンに私には恋人がいるからセックスはなしねと言われて二人で添い寝するってのも、考えてみれば、カレンとの物語は現実じゃないよと言っているみたいでもあります。
デイヴィスは、ジュリアの父親が経営する投資会社で働いています。最初は階層が違う的に父親からは疎まれていたようですが、そこそこ仕事上で評価もされ後継者的位置にいるようです。ただデイヴィスには野心があるわけではなく、何となくそうなってしまったという感じです。
父親は、娘の死を悼み、基金を設立して奨学金制度を立ち上げようとデイヴィスに同意を求めます。この時点では、デイヴィスにはまったく関心がないようにみえます。
で、映画はデイヴィスとカレンの物語を中心に進み、自分がゲイかもしれないと悩む息子のクリスとの交流も絡み、これまでの見掛けだけ豊かな生活であったがために抑圧されていたデイヴィスの本音が物質的なものを破壊することで開放されていくのかと思われるようなシーンが続きます。ここらあたりは映画として結構面白いです。
ただ、私は何となくヒヤヒヤしてみていました。これ、どうやって解決つけるの?って。まさか、デイヴィスが今の裕福な生活をすべて捨ててカレンと一緒になるとか、それはないよなあとか、でも展開的にはそれしかないよなあとか、きっとこれは何か起きるよ、などと考えていたわけです。
カレンはマリファナ常習者でその仕入先として解体屋(かな?)のおじいさんが登場し、倉庫にもう使われなくなったメリーゴーランドを持っています。
それを見たデイヴィスに妻との思い出がよみがえったのか、フラッシュバック的な海辺でのデート(だったような)のカットが挿入され、映画的現実では、海辺でのカレンとのラブロマンス的シーンが続きます。
そこに流れる曲がメランコリックメロディーで「なんじゃこれ!?」という違和感は半端ないです。
結局、これがオチへの伏線でした。
自宅の破壊の過程で、デイヴィスはジュリアが過去妊娠し中絶したことを知ります。当然自分の子と思い、両親に問いただすべく、ジュリア基金の奨学金授与パーティーに出席します。 そしてジュリアの母から衝撃の事実が突きつけられます。
「あなたの子じゃなかった」と。
この事実を知って、デイヴィスは初めてジュリアを再認識します。これを「愛の再認識」と考えるかどうかは後回しにして物語を進めますと、デヴィスは父親に基金の件は認めるが、ジュリアのためにもうひとつやりたいことがあると言います。
それは、あのメリーゴーランドを修復することです。二人が出会い愛し合っていた(かどうかは不明)ころの記憶としてメリーゴーランドでの楽しいデートが蘇ったからです。
結局、映画は、修復されたメリーゴーランドに子どもも大人もたくさんの人が集まり楽しげにくるくる回るシーンで終わります。そしてそこには「JULIA’S CAROUSEL」の文字があります。
で、後回しにした、デイヴィスは忘れていたジュリアへの愛を再認識したかどうか? 確かにそうかもしれません。
ただこうも考えられます。
他人への「愛」って、「愛情」という独立した感情があるわけではなく、人が持つ様々な感情、思いやりであったり気遣いであったり、愛おしく思う気持ちであったり、依存する気持ちであったり、逆にそうした気持ちの裏返しとしての嫉妬であったり、そこには多少の疎ましさのようなものが含まれるかもしれない、そうしたごちゃごちゃした感情だと思います。
要は最も近しく感じる他者への感情の総体だと思いますが、この映画のデイヴィスは、妻が生前他の男の子どもを宿していたという事実を聞かされます。その時の感情って普通は「悔しさ」でしょう。居ても立ってもいられないはずです。
それまで妻を最も近しい存在として感じていなかった男が、生前妻が浮気をしていたことを知らされ、悔しさのあまり、初めて妻を近しい存在として認識することになったというお話だと思います。
デイヴィスは今後ジュリアとの思い出を愛することはあっても、生前のジュリアを愛していたとは言えないでしょう。