ドマーニ! 愛のことづて

映画のつくりとしては完璧です…

「イタリアで600万人を動員し「バービー」「オッペンハイマー」を押しのけて2023年のイタリア国内興行収入ランキングNo.1の大ヒット(公式サイト)」というのも当然でしょう。映画のつくりとしては完璧です。

ドマーニ! 愛のことづて / 監督:パオラ・コルテッレージ

ネオレアリズモへのリスペクトと現代的センス…

イタリア映画で時代設定が1946年、スクリーンはモノクロのスタンダードサイズとくればネオレアリズモという言葉がすぐに浮かびます。

ところがです。ファーストシーンは、夫婦のベッドルーム、妻が目覚めて起き上がったと思いましたら、隣に寝ていた夫がいきなり妻の頬をひっぱたくのです。

えーーーーー?! どういうこと? と驚いている間もなく、妻は殴られたことに特別反応することもなく、すぐに髪を梳き、着替え、窓を開け、子どもたちを起こし、朝の支度を始めるのです。つまり、夫が妻を殴ることは日常的であり、それをワンシーンで象徴的に見せているのです。さらに妻がてきぱきと動くシーンには「新しい太陽に向かって窓を開けよう」とか「新しい夢に向かって窓を開けよう」なんて歌詞の曲が流れるのです。多分下の4曲目「Aprite le finestre」だと思います。

こんなネオレアリズモはありません。ネオレアリズモは言葉通り写実性が特徴的な文化潮流ですので、こうしたある種寓話的な描写は正反対のものです。

意表をついたこのオープニングで見る者を一気に映画の世界に引き込みます。

監督はパオラ・コルテッレージさん、主演俳優でもあります。初監督作品であり、公式サイトにはイタリアでは知らぬ人はいないほどの俳優でコメディエンヌと紹介されています。

この映画はそうしたパオラ・コルテッレージさんのキャリアとそこから生まれる想像力が結実したような映画です。過去のイタリア映画に敬意を表しつつその映像手法を引用し、そしてそこに監督本人や脚本家の現代的センスが織り交ぜられてつくり上げられたものと言えます。

公式サイトの監督インタビューにそのあたりのことについて語っているところがありました。

Q:脚本作りで、どのような協力を得ましたか?
家族の物語から多くのインスピレーションを得ましたが、歴史的な文脈を正確に描くために、歴史研究者であるテレーザ・ベルティロッティさんにご協力いただきました。幼い頃から、戦後を舞台にしたモノクロ映画をよく観ていた影響もあり、その時代を真に描くときは自然と白黒のイメージが浮かびました。
脚本では、当時のネオレアリズモ(イタリアのリアリズム映画)のスタイルを取り入れつつ、ラブストーリーを中心に展開する「ネオレアリズモ・ローザ(ピンク・リアリズム)」にも触発されました。映画の冒頭では、4:3のスクリーン比を使用し、昔の映画の雰囲気を再現していますが、その後は物語が広がるにつれて画面比も変化していきます。(公式サイト

という、ネオレアリズモ的映像手法にコメディ的、あるいは寓話的なドラマ仕立てで始まる映画なんですが、実はその内容はかなりシリアスなもので、そのシリアスさと各所に織り込まれた軽妙な描写のバランスが絶妙で、伏線が伏線とは気づかないほどうまく仕込まれており、映画終盤への緊迫感の出し方もとてもうまく、そして何といってもラストシーンには驚くと言いますか、おおー、そういうことかとあまりのうまさに口があんぐりしてしまう映画なんです(笑)。

家父長制と男尊女卑、迷いのない男たちの暴力…

ですので、さすがにこの映画は見る前にネタバレを読んではいけません。

それに、以下、記憶をたどりつつ物語の記述に入りますので長くなりそうです(笑)。

1946年5月、終戦直後のローマです。デリア(パオラ・コルテッレージ)は夫イヴァーノ(ヴァレリオ・マスタンドレア)と娘マルチェッラ(ロマーナ・マッジョーラ・ヴェルガーノ)とふたりの幼い息子、そして寝たきりの義父と暮らしています。住まいは半地下の暮らしです。IMDb にあるロケ地をストリートビューで見ますとここですね。

この地上すれすれの面格子の窓が使われていたんだと思います。冒頭のシーン、デリアが窓を開けますと歩く人の足元や犬がおしっこをしていくカットがあります。

イヴァーノはDV夫です。ただその暴力は現代のDVとはちょっと違っており、家父長制と男尊女卑いう価値観の中で当然のもの、つまり夫が妻を暴力でもって躾けるといった意味合いのものなんです。映画中程に父(デリアにとっての義父…)がイヴァーノを呼びつけ、あまり殴りつけるなと言うんです。息子を諭しているわけではありません。始終殴っていては慣れるので殴るときは自分が妻にしてきたようにたまにでいいから徹底的にやれと言うのです。

この映画のうまさはこういうところにあるんです。実際の暴力シーンはないのに、こうした会話や暴力シーンへの入り方、たとえば、その瞬間、イヴァーノがむしろ冷静な顔になり、その顔のアップのまま静かにドアを閉め、続いてマルチェッラの不安そうな顔を入れて、閉めたドアの向こうで起きることを想像させる手法で、そうした男たちの迷いのない暴力性を、そのシーンを見せるよりも強く感じさせるのです。

その後のデリアの表情もよく効いています。なんでもないことだと周りにも自分にも言い聞かせるような表情をするのです。マルチェッラはそんなデリアにお母さんのようにはなりたくないと涙を浮かべて顔を背けてしまいます。

これらのシーンは決してシリアスに描かれているわけではありません。唯一(だったか…)の暴力シーンではイヴァーノとデリアのダンス的な動きで見せたりもしています。まあ、これはちょっとやり過ぎかなとは思いましたが(笑)、それでもとにかく、こういう時代が実際にあったんだと感じる現実感はあるということです。

気づかぬ伏線と大胆な展開…

デリアはイヴァーノと子どもたちを送り出し、寝たきりの義父に食事を与えて下の世話をし、そして働きに出ます。これまた寝たきりの高齢の男に注射(多分インスリン…)をし、裕福な家で2、3人の雇われた女性たちと一緒に洗濯をし、傘屋の組み立てでは雇い主に新人よりも賃金が低いことを訴えても新人は男だからとそっけなくあしらわれて何も言えず、服飾店に縫い物を届けてそれぞれで賃金をもらいます。

帰り道、デリアは連合国軍の黒人兵士の家族写真を拾います。近くの黒人の兵士に渡しますと兵士は大切なものをありがとうと大喜びです。言葉はわからないながらも顔見知りとなり、その後毎日のように兵士が声を掛けてくるようになります。その日はお礼にとチョコレートをくれます。

なぜわざわざ黒人と書いているかと言いますと、デリアの台詞に、兵士には伝わらないもののあなたが黒人だからわかったというものがあり、こんなところまで流れの整合性を考えているのかと思ったからです。

続いてデリアは自動車修理工場の前を通ります。ニーノ(ヴィニーチョ・マルキオーニ)が近づいてきます。ニーノとは若き頃には相思相愛だったのでしょう。今でも互いにその思いを持っている(かのような…)シーンになっており、兵士からもらったチョコレートを二人で食べ、二人で見つめ合いながら互いに微笑みますとその歯はチョコレートでお歯黒のようになっているというギャグまで入れています。また、見つめ合うふたりの周りをカメラがぐるぐる回るスピンショットなんてこともやっています。別れ際にニーノが今でも思っているといったことを言いますとデリアは手紙に書いてと言い去っていきます。

後日、ニーノはもっと稼げる北へ行こうと思う、一緒に来てくれと言います(言葉にはしていなかったかも…)。デリアがいつ? と聞きますとニートは今度の日曜日と答えます。

そしてもうひとつ、デリアには唯一のでしょう、心を許せる友人マリーザ(エマヌエラ・ファネッリ)がいます。デリアはマリーザと親しく言葉をかわした後、家路を急ぎ、その途中、誰も見ていないことを確認して今日稼いだ賃金からいくらかをへそくりとして自分のものにします。

家に帰れば、稼いだお金はイヴァーノに取り上げられるということです。それは娘のマルチェッラも同じことです。マルチェッラは学校へ行きたいのですが、イヴァーノが許してくれず働くことを強要されています。

というデリアの一日、これらがすべて伏線になっているのです。

マルチェッラには恋人がいます。その男は街でカフェをやっている裕福な家の息子で、デリアも結婚を望んでいます。ただし、いわゆる成り上がりもので、ファシスト(ムッソリーニかナチス…)に取り入って財を成したと言われている家です。

ちょっと端折りますが、二人の家族間の会食があり、その男はその場でマルチェッラに求婚します。デリアも大喜びですが、その後、デリアはその男のマルチェッラへの態度に危険な兆候を感じます。イヴァーノにも似た支配欲と暴力性です。

ふたりの会話を聞くデリアの顔にはなにか決心をした表情が浮かんでいます。

次のシーン、街なかです。例の兵士が立っています。後ろには男の家のカフェがあります。いきなりドカーン! カフェが爆破されました!(笑)。

二度、三度と描かれていたデリアの帰り道、特にデリアと兵士が親しくなるわけではありませんが、兵士がデリアの首や腕の痣に気づくシーンがあり、これはなにかあるなとは思ったもののまさかこれとはね(笑)。

この大胆過ぎる展開もなんとも心地よく感じられるのです。

そして、緊迫感あふれる終盤へ…

話が前後しますが、しばらく前のある日、デリアが仕事から戻ってきますと近所の女性から手紙が来ていると言われ、イヴァーノに渡しておいてというデリアにその女性はあなた宛だよと言います。受け取ったデリアはイヴァーノには黙っていてと言います。

デリダは手紙を読み、そして隠します。誰がどう考えてもニーノからの手紙だと思います。

日曜日が近づいてきます。デリアは貯めていたへそくりを確認し、思い切って買った布切れでブラウスを仕立て、マリーザに日曜日の礼拝後にあなたのところへ注射(注射はマリーザの義父だったのね…)に行くことにしてほしいと頼みます。マリーザはついに決心したんだねと言いはしませんがそんな表情でデリアを勇気づけます。

そして日曜日です。

イタリアはカトリック教国ですし、なにせ1946年です。私などの感覚ではさっさと逃げればいいのにと思いますが、日曜の礼拝は絶対的なものとの演出、かどうかは知りませんが緊迫感を醸成するための演出で、ニーノのもとに走りたいとのデリアの気持ち(ではないんだけれど…)を煽りつつ行くに行けない出来事を次々に起こします。

徐々に緊迫感が増してきます。

まず出掛け際、デリアが義父の部屋へ行きますと義父は死んでいます。デリアは逡巡するも今ここでイヴァーノが知ればすべての計画が水の泡となります。そのまま知らぬものとして急かすイヴァーノについて教会に向かいます。教会でも落ち着かぬデリア、神父の説教も耳に入りません。終わりかと思い立ち上がろうとするも神父の説教はいつ終わるともなく続きます。

このあたりの演出のうまいことといったらありません。見ていてもそわそわイライラ、いい加減に終われよ!なんて言いたくなります(笑)。

と、その頃、いつもデリアが出掛けるときに義父の面倒を頼んでいた男が義父の死に気づき、大慌てで教会に駆け込んできます。万事休す、ついにデリアもあきらめます。

お通夜です。男たちは盛んに義父の生前を称え、イヴァーノに追悼の言葉を述べています。イヴァーノは父の死を知ったときから大仰に悲しみを表現しています。イヴァーノが演じなくてはいけない習わし的な役目なのか、イタリア男のファザコンぶりの表現なのか(ゴメン…)、とにかくコメディ的に大層です。デリアはと言えば、夜伽をするのは女性の役目ということなのか横たわる義父の横で夜を明かします。デリア、決心するのシーンでしょう。

翌朝、デリアが再び行動を起こします。準備したバッグを持ち、マルチェッラあての手紙をしたため貯めてきたへそくりとともに眠るマルチェッラの枕元に起き、家を出ようとします。

が、その時、イヴァーノが起きてきます。どこへ行くんだ? 注射を打ちに。こんな早くにか。少しでも稼がないと葬式の花も出せないから。怪訝な表情のイヴァーノですが、行けと許します。

ほっとしてドアを開けて出ようとしたそのとき、ポケットから手紙が落ちてしまいます。気づかぬデリアは早朝の街を小走りで急ぎ、仕事先の服飾店(だったかな…)で化粧室を借りて仕立てたブラウスを羽織り、口紅を塗って目的の場所へ急ぎます。

イヴァーノが手紙に気づきます。読むやいなや手紙を投げ捨て、慌ててデリアの後を追います。マルチェッラが目覚めます。枕元の手紙を読み、部屋を出ます。イヴァーノが投げ捨てていった手紙に気づきます。

街では女性たちが大勢並んでいます。デリアもその列に加わります。

え? なに? ニーノを追うんじゃないの?

裏切られる予想、驚きはため息とともに…

ある建物の前です。女たちが周りに集まり、階段にもぎっしりです。バルコニーのようなところから係員が用紙を準備するように言います。女たちはみな手に何やら紙をもっています。デリアは手紙を取り出そうとポケットを探りますが見つかりません。

ニーノから手紙と思っていたのはデリアあてに送られてきた投票用紙だったのです。

1946年6月3日、その日は前日2日とともに王政か共和制かを問う国民投票の日であり、またイタリアで初めて女性に参政権が認めらた日だったのです。

投票用紙を失くしどうしたらいいのかと戸惑うデリア、そのとき、目の前に差し出される投票用紙、マルチェッラがデリアが落としてきた投票用紙をもって駆けつけてくれたのです。

イヴァーノがデリアに気づき迫ってきます。しかし、女性たちが振り返り、その強き視線でイヴァーノを押し留めます。すごすごと引き下がっていくイヴァーノです。

投票所です。係員が口紅がついていると無効になるので取るようにと言っています。強いしぐさで口紅を拭う女性たち、投票用紙を舐めて封をし、次々に投票していきます。

デリアも指で口紅を拭い、そして投票します。

完璧さがマイナスになることはないのか…

初見でこのエンディングを予想できる人はまずいないでしょう。情緒的な恋愛ドラマに見せかけてラストワンシーンで予想もつかない強いメッセージを放っています。ストンと落ちる爽快感とも違う、ああ、やられた、そういうことかといったある種の感嘆にも似たため息がもれます。

この強いやられた感、うーん、見てから時間が経てば経つほど気になってきます。

映画のつくりは完璧なんですが、映画の持つ力というものは実はちょっと違うんじゃないかという気がしてくるのです。

冒頭で紹介した公式サイトにある監督インタビューの別の問い「Q:映画のアイデアはどのように生まれ、どんなことを伝えたかったのでしょうか?」に対して、パオラ・コルテッレージ監督は

この映画のアイデアは、戦後すぐの時代に生きた人々の物語を描きたいという思いから生まれました。(略)女性たちはしばしば「当たり前」として受け入れざるを得ない抑圧に直面していました。この映画では、そんな女性たちの絶望と、その中に芽生えた小さな希望を描きたかったのです。

と答えているんですが、果たしてそれは達成できたのかという気がするのです。つまり、この映画から女性たちの希望を感じることができるかということです。当然ながら、参政権を得ること、教育を受けること(デリアのへそくりはマルチェッラの教育のため…)は希望です。しかし、これは希望だということと希望を感じることとは違います。

ドラマとしての完璧さに気がいき、優れた映画に必要なある種の抒情性が失われてしまっていないだろうかということです。

とにかく見終えてしばらくはその完璧さに唸ったのですが、時が経てば経つほど、一体何の映画だったのかという気がしてならないのです。

くどいようですが、映画のつくりとしては完璧です。