イザベル・ユペール自身がポスト・フェミニズムと語る、俳優が監督を越えた映画。自由な女性の映画です。
おそらくそれは、ミシェルを演じたのがイザベル・ユペールであったがためにそうなったのであり、あるいは、ポール・バーホーベン(ポール・ヴァーホーベン)監督にとっては(うれしい?)誤算であったのかも知れません。
「犯人よりも危険なのは、彼女だった」というコピー、そうした意味とは違う意味合いなのでしょうが、結果として面白いコピーです(笑)。
とにかく語られるのミシェル(イザベル・ユペール)ただひとり、元夫も、息子も、母も、父も、そしてレイプ犯さえもミシェルのために存在しているかのような映画です。
監督:ポール・バーホーベン
ゲーム会社の社長ミシェルは一人暮らしの自宅で覆面の男に襲われる。その後も嫌がらせメールが届き、誰かが留守中に侵入した形跡が残される。父親にまつわる過去の衝撃的な事件から、警察に関わりたくない彼女は、自ら犯人を探し始める。だが、次第に明かされていくのは、事件の真相よりも恐ろしいミシェルの本性だった。(公式サイト)
原作を読んでみようとググってみましたら…、ん? フィリップジャン(フィリップ・ディジャン)って「ベティ・ブルー」の原作者ですね。
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この2作、女性という点で見れば、映画では随分かけ離れた女性像のようにも思いますが、原作ではどうなんでしょう?
で、映画です。
冒頭からしばらくの展開を細かくみてみようと思います。
いきなりミシェルがレイプされているシーンから始まります。こういうシーンは嫌いなもんですから嫌だなあと思いながら見ていたのですが、意外にも(映画として)あっさりと次のシーンになり、ミシェルが割れた食器類を片付け、風呂に入り、食卓を準備し直します。
何もなかったかのように、かなり冷静に感じられる振る舞いを続けているのです。
この時点ではやや奇妙だなと思いつつも、これからその冷静さが冷徹さへと変質し、執拗に犯人を追い詰めていくのだろうと次を待っていますと、電話をかけ「ハマチを…」などと何かを注文し始めます。
ハマチ!?
と、整理がつかないでいますと、息子ヴァンサン(ジョナ・ブロケ)が訪ねてきます。食事に招いていたようで、ヴァンサンは、働き始めたこと、結婚(同居?)しようと住まいを借りたこと、そして、お腹の大きくなった女性とのツーショット写真をミシェルに見せたりします。
一方、ミシェルは、ヴァンサンの結婚には反対で女性を嫌っており、それに対して金銭援助することでヴァンサンに対する影響力(支配?)を保持しておきたいと考えているようです。
続いて、ミッシェルの職場のシーン、ミシェルは、ややきわどい系ゲーム制作会社の社長であり、大きなディスプレイを前にした新作ゲームの検討会らしく、ミッシェルがチーフディレクターに指示を出し、ディレクターは反論、最後はミシェルが「わたしが社長よ」と、ここでも自らの意思を通します。
その後の、仕事でもプライベートでもかなり親しい友人であるアンナ(アンヌ・コンシニ)との会話では、社員が皆自分を嫌っている(憎んでいるだったかも?)などと全く気にする風でもなく話したりしています。
また別のシーン、ミシェルが、まるで自宅であるかのようにあるアパートの鍵を開けて入っていきますと、そこには年老いた女性とかなり年の離れた若い男がいます。母とその恋人です。その住まいも含め、ミシェルが金銭面の面倒をみているようです。
こうみてきますと、ミシェルとその周りの人間にはある種の共通した関係があることに気づきます。
主従関係です。
ただ、その関係が生まれるミシェルの力の源はお金や権力だけではなさそうです。たとえばヴァンサンの場合、確かにお金は出しますが、それによって別れろと迫るわけでもなく、それ相応の小言は言ったとしても、ある種突き放しているとも見える、その場にいなければ、あるいは目の前にいなければ気にもしていないように見えるのです。
つまり、ミシェルにとって、仮に息子であるヴァンサンがいなくなったとしても、それは決定的なことではない程度の執着に見えるのです。
職場の場面においても同様で、当然雇用関係ですから主従となるわけですが、映画からはディレクターにしてもそうした恐れを感じているようには見えなく、社長をミシェルと呼ぶことに象徴されているように、職場全体が相当自由な空気を感じさせます。
ミシェルにしても、さほど仕事に執着しているようにも見えません。いつやめても(そんなことは言っていませんが)わたしは困らないとでも考えているようにみえるのです。
母との関係にしても、おそらく80歳前後ではないかと思われる母が整形をし、若い男と暮らしている、そのことを目の前にすればため息もつきますが、パーティーを開けばその場に二人を呼ぶという、その程度の距離感に相手を置いているということです。
結局、それらの主従関係は、従側に立たされた人間にしてみれば、その従関係を取り払おうと必死に抗うのですが、主側であるミシェルはどこ吹く風的に気にもとめていないように見えるのです。
ミッシェルの持っている力とはそうした絶対的とも言えるパワー、そう言えば、この映画では信仰や神という概念も重要な要素になっていますが、言うなればミシェルは「神」的な力を持っているわけです。
ミシェルはかなりの危険人物です(笑)。
「男」たちの存在にも触れておく必要があります。
元夫のリシャール、小説家ではありますがあまり売れていないようです。最近若い恋人が出来たようで、そのことをミシェルに話しますと、ミシェルはリシャールのことは知り尽くしているのでしょう、ベッドで相手に「君の好きな僕の作品は何?」と尋ねることを分かっているらしく、ある仕掛けをして別れさせます。
これは単純な嫉妬ではありません。ミシェルは、リシャールが自分に依存していることを分かってやっていることと理解すべきです。
もう一人、今の恋人であり浮気相手、最も親しい友人であるアンナの夫は単純にセックス対象として存在しています。
そして、当のアンナから夫に女がいると相談されても全く動じることなく「私よ」と言ってのけ、結果としてアンナにその「男」を捨てさせるのです。
アンナがミシェルから去るのではなく、男を友人から去らさせるのです。
ミシェルは「男」たちからも完全に自由です。社会的制約からも自由であり、身の回りの人間関係からも自由なミシェルです。
と、話を進めてきますと、あれ?レイプ犯はどうなったの?と思われると思います。
そうなんですよ。この映画、おそらく元々は、被害女性が、レイプ犯は元夫?恋人?部下?隣人?といろいろな仕掛けをして追い詰めていくサスペンスが基調ではではないかと思うのですが、ミシェルがイザベル・ユペールであったがゆえに全く違う映画になったのではないかと思います。
(2017/11/16注)原作を読んだらそうでもありませんでした。
フィリップ・ジャン著 松永りえ訳『エル ELLE』(”Oh…”)
つまり、イザベル・ユペールという俳優は底なしの空虚さ(ほめ言葉)を持った俳優であり、それゆえにこそどんな役でも受け入れられ、どんな役でも言うなればイザベル・ユペールにしてしまう俳優だということです。
結果、ミシェルは、何者にも、そして何事にも束縛されない自由を手に入れた、絶対的とも言えるパワーを持った女性となっているのです。
ああ、犯人は隣人のパトリック(ロラン・ラフィット)です。理由ははっきり語られず、あるいは妻が敬虔なクリスチャンであることと関係があるかもしれませんが、暴力的に、つまりレイプ(的)なセックスしか出来ない男性という設定です。
ただ、映画はそんなことはどうでもよくなっています。ミシェルの自由さは、レイプ=暴力さえも無力化してしまうということです。
もうひとつ、ミシェルの父親が近所の子供達を何人も殺した凶悪犯で現在も無期懲役の服役中との話がでてきますが、これは正直よく分かりません。
というより、(おそらく)結果としてあまり関係なくなってしまった、あるいはその必要がなくなってしまった、そのことをミシェルの人格に関連付ける必要もないくらいイザベル・ユペールがやりきってしまったということではないでしょうか。
あえてここまで書いてきたことに関連付けるとすれば、ミシェルは「過去」からも自由であるということでしょう。
イザベル・ユペール本人のインタビューが示唆に富んでいます。
イザベル・ユペール64歳。『ELLE(エル)』での“ポスト・フェミニズム”を語る。|海外セレブ・ゴシップ|VOGUE JAPAN
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