うまくつくられたエンターテインメントであるがゆえに心に残りにくい
些細なことから大喧嘩になる、ちょっとした行き違いが取り返しのつかないことになる、日常生活でもよく起きることですが、そこに民族、宗教、主義主張が絡もうものならば、それこそ戦争までやってしまいそうになるというお話。ただ、それも男たちだから、の話かも?
片や、キリスト教徒でレバノン人のトニー(アデル・カラム)、片や、パレスチナ難民のヤーセル(カメル・エル=バシャ)。トニーが住まいのバルコニーで花に水やりをしていますと、その水が階下で工事をしているヤーセルたちにかかってしまいます。
これがコトの発端。ヤーセルがトニー宅を訪ね、バルコニーを見せてほしいと頼みますが、トニーはにべもない対応でドアをバタンと閉めてしまいます。
トニーは初っ端からかなり刺々しく他人に敵対的に接する人物として登場しています。政治信条も反パレスチナ難民の右派政党を支持しており、その政党の政治集会に参加するシーンから始まっていました。トニーは、自動車修理工場を営んでいるのですが、始終その政党の扇動的な演説を流しています。妻がおり、間もなく出産予定です。
一方のヤーセルは、普段はぐっと抑えているのでしょう、あまり表情は変わりませんが、かっとするタイプのようです。映画を見ながらでは時系列が整理しきれませんでしたが、おそらくレバノン内戦以前にヨルダンからやってきた難民ではないかと思います。すでに40年くらいレバノンで暮らしているということになりますので、字幕には難民キャンプとありましたが、いわゆるテント暮らしではなく、ある程度の住居があるようでした。パレスチナ人をまとめる現場監督として働いており、仕事は手早く有能なようです。ただし、違法就労とのことです。妻と暮らしています。
という人物設定ですので、ことの発端は、実は些細なことではなく、今の現実社会と同じで、二人はすでに社会的対立関係の中に置かれているということです。ですから、のちにトニーが謝罪が欲しかったからといっていますが、それは自分に対する言い訳で、最初からパレスチナ人に対する悪感情を持っているからコトは起きたということです。
で、その悪意に満ちたトニーの対応に、表情は変わりませんが、ヤーセルにも敵対心が芽生えているのでしょう。ヤーセルはトニーに無断でバルコニーの配管をしてしまいます。怒ったトニーは配管を壊してしまいます。ヤーセルは「クズ野郎(字幕)」と悪態をつきます。
あまり重要なことではありませんのでどうでもいいことですが、ヤーセルたちは違法建築の補修を請け負ってやっているとありますが、何が違法建築でどんな補修をしていたのかがよくわからず、トニーの住まい(バルコニーが?)も違法だとか言われていたり、そもそもなぜバルコニーの配管がなされていなくて水が垂れ流しになっているのかもよくわかりません。あれですと通りががった誰にでも水はかかりますので、普通に考えれば、そもそも最初からけんかを売っているみたいなものじゃないかと思います。もうことは起きちゃったんですからいいんですけどね(笑)。
ヤーセルを雇っている工事責任者は、当然トラブルを避けたいわけですから、ヤーセルをつれてトニーのもとに謝罪に赴きます。 ヤーセルにも謝罪の気持ちはあったのでしょうが、自動車工場へいってみますと、工場中に響き渡る大音量でトニーの信奉する右派政党のアジテーション演説が流れています。
相変わらず敵対的なトニーですし、ヤーセルには謝罪出来ない状況が(映画的に)作られてしまっているということです。ヤーセルは謝罪できません。この時点では、映画はヤーセルに肩入れして作られている印象がします。
いずれにしても空気は険悪になる一方で、トニーが「シャロンに抹殺されていればよかったんだ」と不穏当な捨て台詞を吐きます。
ヤーセルはかっとなってトニーを殴ります。トニーはその場に崩れ落ち、肋骨2本の骨折という重傷を負います。
ということで、当事者間の和解はならず決裂、次元が一段上がり裁判となります。
裁判シーンは一審と控訴審があるのですが、一審の方はちょっと不思議な裁判でした。原告はトニーということでしたので、トニーが訴えたということだと思いますが、ヤーセルは手錠をかけられ、裁判所でも檻の中に立たされていましたので、逮捕されたということになるんでしょう。となれば刑事事件になるんでしょうが、検事に当たる人物も弁護士もつかず、裁判は当事者の言い分を聞くだけのような感じで、かなり違和感のある裁判シーンでした。
この一審のシーンでも、どちらかといいますと、ヤーセルの抑えた態度に対して、トニーの攻撃性が強調されていましたので、おそらくそれを見せたかったのでしょう。
ヤーセルは自ら有罪を認めると発言し、他のことは多くを語らないという、いい人風であるのに対して、トニーは、謝罪を求めているだけなのになぜ謝らないと主張して、自分の過失を認めようともしません。その象徴的な場面が、件の捨て台詞に対して、裁判官がヤーセルに何と言われたのかと執拗に尋ねるのですが、口を閉ざして語ろうとしません。トニーに尋ねても自分に不利になりますので言うはずもありません。そのうちに、興奮したトニーが裁判官を侮辱し始め、(ムッとした)裁判官が突如ヤーセルに無罪を言い渡して結審してしまいます。
裁判になって次元が上がるという意味では、次の控訴審がそうです。裁判になるということは、社会的な善悪、つまり争いごとに法律の視点が持ち込まれるということになります。いくら当事者であるトニーが謝罪が欲しかっただけだといったところで、もうそんなことでは済まなくなり、個人の争いが、もともと内在していたのですが、ここではっきりと社会的対立として認識され始めます。
映画は、両者につく弁護士の対立として表現しています。トニーは、おそらく右派政党の関係からでしょう、敏腕弁護士っぽいワジュディー・ワハビーに弁護を依頼します。ヤーセルの方は、誰にも依頼していないのですが、どこからかナディーン・ワハビーという女性弁護士が弁護するとやってきます。名前をみればわかりますが、父娘です。
二人が父娘であることも控訴審の中でわかることですが、こういう人物設定だと思います。
父の方は右派政党の支持者であり、おそらくそれに関わる弁護を引き受けることで社会的地位も高いのでしょう。オフィスも立派ですし、スタッフ(弁護士かも)も抱えています。
娘の方は、そうした父親の政治信条や生き方に反感を持っているのでしょう。移民難民を支援する団体に所属しているのかどうかはわかりませんが、父親と反対の生き方をすることがアイデンティティとなっている可能性があります。
この人物配置は、ラスト、結局、どちらも傷つかずという結末になるのですが、父娘二人が視線を交わし認め合うようなカットを入れていましたので、この映画が政治ドラマというよりもエンターテインメントを意識していることの現れだと思います。
で、控訴審ですが、法廷ものという点でみれば、論点がはっきり見えてこず、どちらかと言いますとドラマとしては場外乱闘気味の展開になります。
つまり、映画としては、民族、宗教、主義主張の対立を浮かび上がらせたいと考えているかどうかかなり曖昧で、トニーの弁護士は、ヤーセルが過去に、理由があるにせよ難民キャンプで暴力行為を起こしただの、仕事上でバカ高いクレーンを勝手にどうこうだのといった個人の気質を暴くような弁論を繰り広げ、対してヤーセルの弁護士は、ヤーセルがトニーを殴ったのはトニーの暴言に端を発しており正当防衛が成立するといった弁護で、どちらも、いわゆる民事裁判の論争にとどまっています。
つまり、裁判上の論点には、民族、宗教、主義主張が絡む余地はないのです。
この事件があたかも社会的な対立であるかのように見えてくるのは、この控訴審が、その途中からメディアによって報道され始め、民族、宗教、主義主張の対立として煽られたからです。
傍聴席においてもレバノン人(でいいのかな?)とパレスチナ人に分かれて何かあれば罵りあい、街なかでちょっとした暴動騒ぎも起きてしまいます。
ですので、よーく考えてみますと、控訴審で、たとえばパレスチナ人がレバノン人の権利を侵しているであるとか、パレスチナ人の人権が侵されているといったことが争われるわけではなく、あくまでも両者の人間的資質の争いのようなことにとどまっており、またそこには弁護士である父娘の確執が大きく影響しているようにしか見えないのです。
ドラマが場外乱闘気味であるという点をさらに補足すれば、控訴審の進展とは別次元で、トニーとヤーセルは和解してしまいます。
こうです。裁判所から出た二人がたまたま駐車場でかち合います。トニーは先に車で出ていきますが、ヤーセルの車はエンジンがかかりません。それを見たトニーは一瞬の逡巡の後、戻ってきます。ヤーセルに乗っていろと相変わらずぶっきらぼうに言い、さっと故障箇所を直して、無言で立ち去ってしまいます。ヤーセルの穏やかな顔のカットが入ります。
後日、自動車工場にヤーセルがやってきます。トニーが相対しますと、ヤーセルは突然侮辱的な言葉を投げつけ始め一向にやめようとしません。
トニーはかっと(したかどうかはわからなく、ヤーセルの意図を理解したのかも?)してヤーセルを殴りつけます。立ち上がったヤーセルは体を抱えながら数歩歩き、振り返って、すまなかったと言い立ち去ります。
むちゃくちゃつくられたドラマではありますが、まあとにかく、当事者間は和解します。
裁判の方はすでに当事者の意識とは離れてしまっています。広く報道されたことにより、裁判所の外では、民族、宗教、主義主張の対立となっていますし、裁判所内では父娘対決の様相を呈しています。
父娘対決にもみえる弁論の中で、ここまで一貫してパレスチナよりだった立ち位置が少し変わってきます。父親の主張の中に、なぜお前(娘)はパレスチナ人の味方をするのだ、なぜ世界はパレスチナ人だけを被害者としてみるのだといったニュアンスの、言うなれば、今現実に(おそらく)ヨーロッパ全体に広がりつつある反移民感情にも似た意識が見え始めるのです。
そして、トニーに関わるある事実が明らかになり、裁判は集結をむかえることになります。実は、トニーは、レバノン内戦時に起きたパレスチナ人による(と言われている)ダムールの虐殺の犠牲者だったのです。トニーは6歳(だったと思う)の時にその事件に遭遇したサバイバーであり、パレスチナ人に対する敵対心はそこから生まれたということです。
トニーもヤーセルと同じ立場にいるということです。
ただ、よくわからないのは、なぜトニーはそれを隠しているのかということで、右派政党への入れ込み方からして、特に隠す理由はないように思います。映画的なドラマづくりのための設定なんでしょうか?
ということで、控訴審の判決は、3人の裁判官の2対1で無罪判決という結果になります。つまり、誰も傷つかない結果となっているということです。
つまり、この映画はとてもうまくつくられたエンターテインメントであるということです。非難ではありません。
ただ、この事件によって社会に放出された民族、宗教、主義主張による対立は、この二人の和解とは関係なく、消えることなく残ってしまうのです。