「冬の小鳥」のキム・セロンさんが24歳になっていることも亡くなっていることを知らなかった…
チョン・ジュリ監督の「あしたの少女」を見た際にこの「私の少女」を見てみよう思ったことを思い出しました。かれこれ2年前になります。

キム・セロンさんが亡くなっている…
びっくりしました。
ドヒを演じているキム・セロンさん、「冬の小鳥」の少女を演じていた俳優さんだなあと思いながら見ていたんですが、今、何気なくググっていましたら今年2025年の2月に亡くなっているんですね。
それにその映画の10歳くらいの印象のままのキム・セロンさんしか知りませんし、この「私の少女」を見ながら大きくなったんだなあなんて思っていましたら、亡くなられた時は24歳ということでした。
当たり前ですね。「冬の小鳥」はもう10数年前の映画ですし、この「私の少女」だって10年前の映画です。撮影時は14歳くらいでしょう。
率直なところ、亡くなられた経緯はわかりませんが、こんな役を子どもにやらせなくてもいいのになあなんて思いながら見ていましたのでよけいに気持ちがどよーんとしてしまいます。
子どもにこういう演技をさせることっていいんだろうかということです。
ひと月ほど前に見た「MELT メルト」もそうですし、少し違った意味では「フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法」なんかもそうです。
演技って体験ですからね。特に子どもにとっては演技と本人の実体験の境界は曖昧なものじゃないかと思います。
子どもが怪物に見えるのは大人のせい…
というような思いもあって、この「私の少女」の印象はよくないです。
結局、子どもの行動が大人にとっては時に怪物(と字幕で表現されていた…)のように見えるということをやっているんですが、それを同性愛や DV という大人の問題に絡めて描いているものですから一見社会派映画に見えたりもしますが、それぞれへのツッコミが皆無ですので物語をつくるためだけに利用しているだけの映画にみえます。
実際、違和感のつきない映画です。
ヨンナム(ペ・ドゥナ)が警察本庁から田舎の警察署長として赴任してきます。これが左遷ということらしく、その理由はヨンナムがレズビアンであることらしく、映画ではそれ以外には何も語られません。単に個人的なセクシュアリティによって左遷されたということなんですかね。
偏見や差別ということであれば理解できますが、いくらなんでも公職にある者を左遷はないでしょう。
そのヨンナムが14歳のドヒ(キム・セロン)と出会います。ドヒは明らかに父親や祖母から虐待されていることが描かれ、ヨンナムをそれをはっきりと認識しています。あるいはドヒの自傷行為と見せたいということも考えられますが仮にそうだとしたら中途半端過ぎますのでそれはないでしょう。
いずれにしても、ヨンナムがやることといったら、ドヒを自分のもとにおいて、食事を与え、衣服を買い与え、美容院につれていったりするだけで根本的な解決を試みようともしません。挙げ句の果に自分の都合でドヒに当たったり、家に帰れと言ったりします。
警察官としてと言うよりも自立した大人のやることではありません。自分の都合で子どもを弄んでいるだけです。
そうした大人の身勝手さを描いているのなら、それはそれで映画として成立しますが、それもあり得なさそうです。
なんてったって、最後にはドヒを連れて車でどこかへ行っちゃうんですから。ソウルへ移動になったようですのでソウルで二人で暮らすということなんでしょうか。それこそ未成年誘拐で逮捕されます。
他にも不法滞在者の存在にしても物語のために利用しているだけにしか見えませんし、ドヒの母親が失踪したことにもまったく興味がなさそうです。
いずれにしてもこうした内容の物語をこんなに情緒的に描くこと自体が問題です。
情緒が表層を滑っていく…
この「私の少女」と「あしたの少女」を見ただけですが、チョン・ジュリ監督は物語をつくることに囚われ過ぎじゃないですかね。シナリオも本人名のみになっていますので、おそらく、その時世の中で起きていることから発想して、それを観念的にふくらませて物語をつくっていくんだろうと思います。
「あしたの少女」のレビューにも書いていますが、描こうとしているテーマを情緒的に訴えようとするのではなく、もっと現実感をともなった迫り方をしたほうがいいように思います。
ゴメン、よけいなことでした。