あしたの少女

もう「다음 소희(次のソヒ)」は出ないでほしい…

2017年に韓国全州で大手通信会社のコールセンターで働き始めた高校生がその3ヶ月後に自ら命を断ったそうです。この「あしたの(ない)少女」は、その起きてはいけないが現実に起きてしまったことをベースにした映画です。原題の「다음 소희(次のソヒ)」には、もう次のソヒは出ないでとの思いが込められているのだと思います。

あしたの少女 / 監督:チョン・ジュリ

二部構成のマイナス点をペ・ドゥナが…

映画は前半後半という二部構成になっています。視点が変わるというつくりではなく、前半では高校生ソヒ(キム・シウン)が、いわゆるブラック企業で精神的に追い詰められ自殺するまでを描き、後半は刑事のユジン(ペ・ドゥナ)がソヒの自殺にはなにか理由があるはずだと、企業や学校の非人間的成果主義や行政のことなかれ主義を暴いて前景化させ、また自身もソヒの3ヶ月を追体験していくような映画になっています。

細かいところまでていねいにつくられていますし、情に訴えようとするところもなく、とても見やすくいい映画です。

ただ、構成上、前半でソヒの置かれた環境がひどいものであることは明らかにされているわけで、後半になにか新しい事実が明らかになるわけではありませんので、映画的にどうかは微妙なところです。

そのマイナス点を刑事役のペ・ドゥナさんの存在感で持たせようということのようです。

また、ソヒはダンスが好きな少女ということで冒頭とラストにソヒが踊るシーンを持ってきており、ユジンもすれ違いではあるけれども同じグループにいたらしく、全体を通してダンスを軸にして何かを表現したかったようですが、残念ながら明確な軸にまではなっていません。

ダンスで知り合った男友達の立ち位置もかなり曖昧です。職場でいじめられているらしいシーンもソヒの問題に絡んできませんし、ラストでの登場も重要なことを明かすような展開でありながら、すでに前半で描かれていること以上のものはありません。

おそらくユジンに、なにか問題を抱えているのなら私に(誰かに…)言ってきなさいと言わせるためかと思いますが、それが難しいことだからこうした悲劇が起きるということを、この映画自体が前半で示しているのではないかと思います。

精神的圧迫にさらされるソヒ…

ソヒは高校生です。教師から大手通信会社のコールセンターの実習生の話をもらいます。教師はこんないい話はないから頑張れと言っています。

ソヒの学校は職業訓練校(日本の専門学校のようなもの?)で、就職率によって行政からの補助金が変わるなどもあって就職率優先であり、生徒の送り先がどんな企業かなどお構いなしで、後にソヒが企業から叱責されたりしたことでもソヒが辞めれば学校の評判が落ちるなどと生徒を脅したりします。

コールセンターでは解約阻止率といった成果でランキングをつけており、またコールセンター間でも競争を煽って成果をあげようとしています。コールセンターにはクレームはつきものですが、受ける方は精神的にかなりきつい仕事だと思います。

映画はそうした前提で描かれますので、ソヒのつらさはある程度は伝わってきますが、映画的にはもっとじわじわと追い詰めていく描き方もあるんじゃないかと思います。あくまでも映画の表現方法としていかに強く訴えるかの話です。

とにかく、雪の日、センター長が車の中で練炭を炊いて自殺します。いわゆる中間管理職ですので上からの圧迫と部下や顧客への自責の念で追い詰められたということです。センター長は会社を告発する遺書を残しています。しかし会社は、遺書にあるような事実はなかったと従業員全員から同意書を取って隠蔽しようとします。

ソヒは拒否します。会社からは弔問に行くことも禁止されますがソヒはひとりで行きます。そして、次第にソヒ自身が追い詰められていきます。同意書にサインしたことからも精神的アップダウンが激しくなり、いっときは成果がでて1位になったり、それが逆に他の従業員から責められたりします。そして、成果報酬が出ていないと新しいセンター長に詰め寄りますと、実習生への支払いは2ヶ月先と言われ、思わずセンター長を殴りつけてしまいます。

3日間の出勤停止処分です。学校からは非難され、両親に頼ることもできません。両親に関してはあまりはっきりとは描かれていませんが、ソヒが大企業に就職できたと喜んでいるような描写があり、それがためにプレッシャーもあるという設定かと思います。

雪もちらつく真冬、ソヒは池から凍った状態(実際にはそれはないと思う…)で発見されます。

二部構成は正解か…

そして後半です。ユジン刑事が登場し、ソヒの置かれていた抑圧環境を追体験するように捜査が進みます。

韓国であっても警察が事件性のない自殺を捜査することはないとは思いますので、この映画のユジン刑事の行動は告発のための創作でしょう。

という意味において考えますと、やはり二部構成がうまく効果を発揮しているようにはみえません。

この映画が描いている企業の従業員への圧迫や学校や行政のことなかれ主義は、誰もがきっとあるに違いないとわかっていることです。もちろんそれは、韓国だけの話というわけではなく日本でも同じという意味ですが、そうした誰もが薄々わかっていることを強く伝えていくためにはどれだけ現実感を伴わせて描けるかが一番重要なことになります。

その点では、この映画には、こんなことがありました的ではない問題の本質に迫ろうとの視点は感じますが、結果として、ユジン刑事がどうあがいても何かを変えることはできない結果になっているわけですし、ソヒとユジンがともに見る光の筋にしても、そこから感傷的以上の意味合いを感じることはできません。

やはりこうしたテーマは、告発する人物を中心に置きますと最後はやるせなさで終えるしかなくなります。オーソドックスにソヒの置かれた劣悪な環境をもっと現実感をもって深く描き、また両親や友人との関係もソヒの自殺にどう影響したのかを描くほうがより強く思いが伝わるのではないかと思います。

チョン・ジュリ監督には「私の少女」という前作があるとのこと、見てみようと思います。