アイダの苦しみを共有できるのなら世界は…
日本での公開は3作目になるヤスミラ・ジュバニッチ監督、2006年の「サラエボの花」はベルリン映画祭で金熊賞を受賞しています。1990年代始めのボスニア・ヘルツェゴビナ紛争下で起きた悲劇的な過去を乗り越えようとする母娘を描いていました。
この映画「アイダよ、何処へ?」も同じくボスニア・ヘルツェゴビナ紛争下の話ですが、まさしくその当時、実際に起きた大量虐殺事件「スレブレニツァの虐殺」を描いています。
エスニック・クレンジング
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争はエスニック・クレンジングという恐ろしい言葉を世界に広げた戦争です。
もちろん、それまでにも虐殺による民族的な迫害はあったわけですが、まさに民族そのものを消し去るといった行為をイメージしてしまう言葉「エスニック・クレンジング」が一般紙にも登場するようになったのは1990年代のユーゴスラビア紛争からです。
ただ、言葉の誕生そのものには、ボスニア政府と契約していたアメリカの広告会社がセルビア側を非難する戦略として編み出したという側面がありますので、言葉の意味合いにとらわれて物事を一面的に見ないように気をつけなくてはいけないことではあります。
この「スレブレニツァの虐殺」は
ボスニア・ヘルツェゴビナの連邦行方不明者委員会による、スレブレニツァで殺害されるか行方不明となった人々の一覧には、8,373人の名前が掲載されている。2008年12月までの段階で、およそ5800人の遺体がDNA調査によって身元特定され、3,215人がポトチャリのスレブレニツァ虐殺記念館にて埋葬された。(ウィキペディア)
との事実認定がされている大虐殺ですので、どれだけ非難してもし過ぎることはないのですが、ことは戦争ですので、どちらの側でも似たようなことは行われていたんだろうと思います。
実際、ウィキペディアによれば、「1992年にスレブレニツァで、ムスリム武装勢力のリーダー、ナセル・オリッチによって、セルビア人が約1200人殺害された」との事実もあるようです。
その記述のリンク先を読んでみるのもいいかと思います。
息が詰まるような現実感
ジュバニッチ監督にもそうした意識があるのか、あるいは当事者としての立ち位置の難しさがあるのかはわかりませんが、映画は善悪二元論のような描き方はされていません。
虐殺を予感する不安感
虐殺を指示したとされるスルプスカ共和国軍のムラディッチ将軍も登場し、たしかに傲慢不遜な人物に描かれてはいますが、虐殺を指示するシーンもありませんし、非道さが強調されるわけではありません。
直接的な虐殺のシーンはなく、言葉にしなくても連行されていけばきっとそうだろうと皆がわかっているような不安と緊張感を感じさせることで虐殺を予感させ、連行された者たちが建物に入れられその遠景のまま銃の乱射音が聞こえたり、今から映画を見せてやると言われながら部屋に押し込められ、投影の窓から銃身が何本も出てくることで虐殺シーンが描かれていきます。
見るものの気持ちを煽らない、そうした描き方が逆に強い現実感を感じさせます。
ムラディッチ将軍を演じている俳優はセルビア人のボリス・イサコヴィッチさんです。セルビアでは今でもムラディッチを英雄と称える声もあるそうで、この役を演じることには葛藤もあったそうです。
で、このイサコヴィッチさん、アイダを演じているヤスナ・ジュリチッチさんと実の夫婦だそうです。アイダは映画の中で夫と二人の息子を虐殺されますのでボシュニャク人ということになるのでしょう。
こうした配役が可能なのに、現実にはこんな虐殺事件が起きてしまうことが不思議でなりません。
正義の人ではないアイダ
で、そのアイダですが、まったく持って善人というわけではありません。アイダは教師ということから通訳としてスレブレニツァに駐留する国連軍(PKOかな?)に雇われています。スレブレニツァは、国連が安全地帯にするとしているのですが、スルプスカ共和国軍は構わず攻め入り制圧してしまいます。住人たちは我先にと国連のキャンプに逃げ込みます。しかし、何万という人が入れるわけもなく、門は閉ざされ、アイダの夫と息子たちも外に取り残されます。
アイダは自分の立場を使って夫たちを中に入れようと奔走します。その行為に迷いはありません。兵士たちに家族だから入れてくれと必死で頼み込みます。そんなことをしたら暴動になるとの国連職員の言葉にも自分自身を振り返る余裕はありません。
これが平時であれば誰もがそれはまずいよと言えますが、アイダと同じ立場に立った時、果たしてそう言えるかは誰にもわかりません。
アイダの行動は、見ていてだめじゃないのと思いつつも、ああ自分もそうするかもと、何ていうんでしょう、同情の気持ちと罪悪感がごちゃまぜになったような、そんな気持ちになるように映画がつくられているのです。
無力な国連
国連軍の司令官の描き方も同じようにいやーな現実感を感じさせます。
国連の部隊は200人(400人?)のオランダ軍の平和維持活動隊です。映画の冒頭、その司令官とスレブレニツァ市長との会議のシーンであり、アイダは通訳として立ち会っています。
スレブレニツァはすでにスルプスカ共和国軍に包囲されています。不安そうな市長に司令官は相手が攻撃に出れば空爆する段取りになっていると言います。しかし、いざスルプスカ共和国軍に攻撃を受け、いくら空爆を要請しても実行されません。そして住民たちが国連キャンプに殺到します。
なお、映画の中ではNATOが空爆をしないことでスレブレニツァを見捨てたような印象に描かれていましたが、ウィキペディアによれば、実際にはいろいろ空爆できない理由があったようです。
いずれにしても、どんな理由があるにしろ、あの状況の中にいれば誰でも見捨てられたと感じるでしょう。スルプスカ共和国軍に包囲され、食料など物資の補給もままならず、軍隊と言えども平和維持活動隊ですから軽武装です。結局、国連軍自体が捕虜のような状態になっているわけです。
ムラディッチ将軍は国連施設に逃げ込んだ住民代表との交渉を提案してきます。アイダはその役割を夫にさせようと司令官に頼み込み、夫と息子たちを施設の中に入れます。
アイダの夫は元校長です。物語の構成上のテクニックでしょうが、ムラディッチ将軍が交渉相手に知的な人物を求めているとの設定で夫たちを施設の中に入れる展開にしてあります。ちょっとわざとらしいのですが、うまいのはすぐにそれを打ち消すように、夫に自分は交渉などしたくない、中に入りたくなかったと言わせています。
アイダにしてもそうですが、こうした状況で人の視野が狭くなっていく様がよく出ています。
そして、ムラディッチ将軍と国連軍の司令官、アイダの夫たち代表者3人の会談です。皆、完全にムラディッチ将軍に飲み込まれます。司令官でさえ不安げに見えます。
会談に意味はありません。優位性を見せつけることと、その会談の間に部下を国連キャンプにやり、武装したまま施設内に入れさせます。武装した者は入れない規律など意味をなしません。
この場では特別なにも起きませんが、映画としては、ムラディッチがなんの暴力行為をすることなく、完全に優位に立っていることを見せつけます。
うまいですね、映画がです。
完全に優位に立てれば、要求を飲ませることは簡単です。住人たちを安全な場所に輸送すると言われれば、飲まざるを得なくなります。バスが手配され、国連施設に横付けされ、住人たちが男女に分けられ、バスに押し込まれます。皆、どことなく不安げです。
映画を見ている者には当然虐殺が予感されます。
そして、画はありませんが大量虐殺が実行されます。
アイダは、夫と息子たちを国連施設内に匿い、なんとか国連の関係者として逃そうとします。しかし、それは叶いません。夫たちはトラックの荷台に押し込まれ、何処かへと連れ去られます。
車はある建物に横付けされ、さあ映画を見るんだと建物の中に押し込まれます。実際に映画館だったところなのでしょう。住人たちは不安げにあたり見回しています。投影口から銃口がのぞきます。そして乱射される音。
アイダよ、何処へ?
何ヶ月後、あるいは何年後か、アイダは教職に戻り、子どもたちに教えています。
自宅だったアパートメントを訪ねます。すでに連絡はしてあったようで、居住者はアイダを招き入れ、空き家だと思ったからなどと言っています。去り際、アイダは相手に出ていくように告げて去っていきます。
Quo vadis, Aida?
聖書から引用のタイトルらしいです。
暴君ネロ帝の治世下のローマ帝国ではキリスト教徒への迫害が激化しており、虐殺を恐れて皆が国外へ逃れようとしていました。十二使徒の一人である聖ペトロもそのひとりで、ある夜明けの光の中にイエス・キリストを見ます。ペドロが「Quo vadis, Domine?(主よ、何処にか行き給う)」と尋ねますと、キリストは「汝、我が民を見捨てなば、我、ローマに行きて今一度十字架にかからん」と答えます。聖ペトロはローマへ戻り捕らえられて十字架にかけられたということです。
アイダは殉教はしていませんが、様々な意味において悔恨、自責の念で苦しみ続けるということなんだと思います。