パリ、ボルドー、ロンドンの日常風景の中の僕、という映画
アマンダの母親が亡くなることは予告編で知っていたのですが、理由はこれですか!? と、びっくり。それに、アマンダがその喪失感を乗り越えていく過程を描いた映画かと思っていましたら、そうでもなかったです。
昨年(2018年)の東京国際映画祭のグランプリと最優秀脚本賞受賞作品です。
映画の軸となっている物語自体はシンプルです。
パリです。母子家庭のサンドリーヌと娘アマンダ、そしてサンドリーヌの弟ダヴィッド(バンサン・ラコスト)がいます。ある日、サンドリーヌがイスラム過激派(と字幕にあり)のテロで亡くなります。ダヴィッドはアマンダを引き取るどうかで悩みますが、最終的に養子として育てることを決断するという物語です。
最初に書きましたサンドリーヌの死亡シーン、見ていて、えっ!? って思いました。むちゃくちゃ唐突です。前振りも何もありません。サンドリーヌがベビーシッターにアマンダを預け、急いでバッグに荷物を詰めて出掛けていったと思いましたら、もう次は公園で何人もの人が血だらけで倒れているというカットです。それだけです。そのカットからは数人以上の死者が出ている様子が読み取れますので世界中に報じられるような大事件なんですが、事件後もそのことについては何も語ろうとしません。
パリあたりではそうした危険性が日常的と考えるべきなのかと思いますが、でもこれだけその事件について何も語らないのなら、交通事故くらいにしておいたほうがいいのではないかと思います。
ただ、このあっさり感はここだけではなく全体を通してですので、おそらくミカエル・アース監督の作風なんでしょう。
そのあっさり感を先に書いておきますと、母親を失ったアマンダの喪失感、そしてそこからの立ち直りはこの映画の主題かと思っていたのですが、これも意外にもかなりあっさりめです。あの子役(イゾール・ミュルトリエ)ならもっといろいろ描くことはできるんじゃないのと思いますがあえてそうしなかったんでしょうかね。
ですので、この映画、全体的にどこかぼんやりした、何がポイントかわかりにくい映画に感じられます。
基本的にはダヴィッドを追うことで映画は語られていきます。
ダヴィッドには定職はなくアパート管理と庭師の仕事をしています。姉のサンドリーヌとは常時付き合いがあるようでアマンダの迎えを頼まれたりしています。姉は英語教師です。母親がイギリス人であることからの設定でしょう。二人は父子家庭で育ち、父親は亡くなっています。母親はイギリスで暮らしているらしく、姉はウィンブルドンの観戦チケットを3人分購入して、その機会に母親に会う段取りをつけています。しかし、ダヴィッドは自分は母親に会いたくないと言います。
このサンドリーヌとダヴィッド姉弟の人物背景、結構深い話になりそうですし、実際、ラストには母親も登場しますので、この関係をもっと描けばいいのにと思うんですけどねえ…って余計な話です(ペコリ)。
姉が亡くなる前に、ダヴィッドは、管理を任されているアパートの入居者としてボルドー(って言っていた?)からやってきたレナ(ステイシー・マーティン)と知り合い、その後恋人関係になります。
という人物が揃ったところで、例のテロ事件があり後半に入っていきます。
実は、私、この中盤あたりで、この映画なんだか変だなあ?という感触を持ち始めています。これ、パリの観光映画? と、かなり穿った言い方ではありますが、そんなことが頭をよぎったのです。
ダヴィッドが宿泊客を待つシーン、アマンダを迎えに街を走るシーン、姉と一緒に自転車で走るシーン、アパートからの街角のカフェシーン、レナを迎えるシーン、アマンダに母親の死を話すために街を歩き回るシーン、街なかで友人とばったり会うシーンなどなど、パリの街並みを流れるようにとらえたシーンが非常に多いのです。まあそうした映画が珍しいわけではありませんので、おそらく、気になったのはその映像があまりにも日常的に感じられる映像だったからだと思います。
パリだけではありません。後半、レナを迎えに行ったボルドーでもそうです。レナの家を探し歩いて、玄関先で母親に会い、その後も家に入ることなくレナと街を歩いています。
ロンドンで母親に会う場面も公園ですし、ダヴィッドとアマンダは街なかを自転車で移動します。いくらロンドンの公園が美しいといってもまさかそれを見せようとしたわけではないとは思いますが、どういう意図なんでしょう。
で、後半、すでに書きましたが、突然姉を失ったダヴィッドの混乱もあっさりしていますし、アマンダの喪失感もあまり伝わってきません。受け入れたくない感情や気丈さといえなくもないのですが、映画的な起伏に欠けます。それが淡々と描くことを選択した結果であるとうまく伝わってこないということで、何かしら物足りなく感じるという意味です。
突然、ではなく、多分台詞では前振りがあったのでしょうが、ダヴィッドの叔母が登場します。父親の妹です。アマンダを叔母にあずけたり、ダヴィッドが姉の家で面倒を見たりの日々が続きます。
叔母の話として、イギリスにいる母のことが語られます。叔母によれば、母親がイギリスへ去った時、父親はかなりのショックを受けていたといいます。また、叔母はその後も手紙をやり取りしており、母親は情熱家なのですぐにパートナーが出来たとも言っていました。
ダヴィッドの母に対する思いや葛藤も描こうとすれば割と簡単にできるのではと思いますし、会いたくないと言っていることや手紙を受け取っても読もうとしないことなどは見せているのですから、それをするならもう少し突っ込んだ描写すればとは思いますが、これも余計な話。
レナの人物背景もかなり曖昧です。パリにやってきたばかりで、故郷には帰りたくないと考えています。ピアノ教師であり、アマンダに教えることになりますがそのシーンは一度もありません。
そして後半、ダヴィッドはレナを病院へ迎えに行きます。レナもテロの現場にいたらしく右腕を負傷したということなんですが、これもかなり唐突です。サンドリーヌと会う約束とかの振りがあったのかも知れませんが記憶できていません。サンドリーヌの死と並行して描くべきですね。
レナが故郷に帰ると言います。ダビッドに、今はあなたとアマンダを支えなくちゃいけない時なのに自分自身の気持ちが沈んでいてそれができないと言います。
んー、レナとダヴィッドを引き離すためのこじつけの展開にみえてしまいます。パリに出てきて家に帰りたくないと言っていなかったですかね?
で、後日、ダヴィッドはレナをボルドーまで迎えに行き、アマンダを養子として育てることにした、レナにももう一度パリへ戻ってきて欲しいと伝えます。
ラスト、ダヴィッドはアマンダを連れイギリスへ向かい、母と会います。例の公園のシーンです。ダヴィッドに母の記憶はないようなことも語られていましたのであんな感じのあっさり感がリアルと言えばリアルなんでしょう。もちろん、アマンダとの対面シーンもあります。
ウィンブルドンのセンターコート、アマンダは母親が座るはずだった席にそっと自分の荷物を置きます。1ゲーム目、ポイントが一方の選手の40−0になり、アマンダが泣き始めます。相手の選手を応援しているというわけではありません。
「Elvis has left the building.」
母親が生前教えてくれた言葉、「エルヴィスはもう建物を出た」つまり、「もう終わりだ」が頭に浮かび、母親への思いがわーとふくらんだということです。
慰めるダヴィッド、ゲームは相手選手が挽回し40−40のデュース、アマンダに笑顔が戻ります。ダヴィッドの携帯にレナからパリへ戻る(だったか…?)のメールが入ります。
ということで、つじつま合わせのようなシナリオから感じられる多くの違和感や疑問はありますが、過剰なドラマを避けようとしていることはわかりますし、観光映画かと思うような映像も、日常の中でのダヴィッドとアマンダを撮りたかったのだろうと思えば、何となくいい映画だったかも知れないと思えてきます。
前作になるんでしょうか、「サマーフィーリング」が7月に劇場公開されるようです。