落下の解剖学

法廷劇と思いきや、夫婦間のジェンダー観トラブル、いや実は…

昨年2023年カンヌ国際映画祭のパルムドール受賞作です。監督はフランスのジュスティーヌ・トリエ監督、45歳くらいの方です。過去には短編と3本の長編がありますが、日本での公開はこの映画が初のようです。

落下の解剖学 / 監督:ジュスティーヌ・トリエ

推測、憶測、そして妄想…

かなり面倒くさい映画です(笑)。

夫が自宅の3階から転落死し、妻が殺人罪で起訴されます。弁護側は自殺を主張します。その法廷劇という映画です。

話はむちゃくちゃシンプルです。なのに面倒くさいんです。なぜかと言いますと、映画が何をやろうとしているのか映画中盤までよくわからないんです。いや、最後までわからないかな(笑)。

このプロットなら一般的には真実は何かを求めてその時一体何があったのか、また、何が起きたのかと証拠を出し合い、あるいは時には新事実が明らかになったりして、最後には殺人か自殺かが明らかになるといった法廷サスペンス劇をイメージします。

ところが、この映画は違います。検察側も弁護側も証拠となるものを何も出さない(出せない…)んです。この事件、そもそも妻が夫を凶器で殴り、突き落としたという起訴内容なのに、その凶器がないんです。検事が平気で凶器はないって言うです。

それなのに映画152分のうち、法廷シーンが2/3くらい、100分から2時間くらいはあったんじゃないかと思います。その間、映画は何をやっていたと思います?

推測、憶測、仮説のぶつけ合いです。なかには妄想もありました。

面倒くさい映画でしょう(笑)。

ものごとは常に一面的?…

ということですので、映画はあえてそれをやっているということになります。何のためにでしょう。

真実はひとつじゃない?

んー、違いますね。この映画でもそれはひとつだけ使われています。夫が落下したところには小さな物置、死体の足の先の四角いものですが、そこに血痕がついていたとのことで、検視官が3階のバルコニーで殴った際に飛び散ったものだと断定したことに対し、弁護側の証人が物置で頭を打ったことによっても飛び散る可能性があり、物置から被害者のDNAが発見されないのは雪で溶け落ちたからだと主張します。

真実、あるいはものごとは常に一面的というのはもう21世紀では当たり前のことですので、今更そんなことを映画にしてもつまらないですね。それにどちらの主張も無茶苦茶です。凶器がないのに凶器で殴って飛び散った血だってのもどうよと思いますし、一方、DNAは雪で溶け落ちたといってもその下からも採取されていないわけですからありえないでしょう。

結局、この映画、実は法廷劇じゃないんです。

問題を抱える夫婦がいて、その問題が何かを法廷劇のスタイルをとって見せていこうとしている映画なんです。そう考えるしかないです。そもそも物的証拠もまったくなく、凶器を証明できない殺人事件なんてまともな法治国家なら裁判になどなり得ません(多分…)。あの挑発的な検事の弁論は裁判のものではありません。どちらかと言いますと、検事が語っていることは世間の目、今で言えばネット上の悪質な誹謗中傷のたぐいです。

明らかになる夫婦の問題…

こういうことでしょう。まずは夫婦の過去です。

妻サンドラ(ザンドラ・ヒュラー)はドイツ人、夫サミュエルはフランス人、ロンドンで知り合って結婚し、息子ダニエルが生まれています。

ダニエルは現在12、3歳と思われます。何年か前、ロンドンで交通事故に遭い視覚障害になっています。その時、サミュエルが学校へ迎えに行くはずであったのを知人に迎えを頼んだそうです。サミュエルはそれゆえダニエルの失明は自分のせいだと考えるようになり、教師の仕事をやめて故郷グルノーブルに戻ってやり直すことになります。

サンドラは作家です。すでにロンドンでそうであったかどうかは語られていませんが、現在ではそれなりに成功しています。実はサミュエルも作家を目指しているのですがうまくいかないようです。

という過去です。ダニエルの事故以降、夫婦間がうまくいっていなかったということです。

映画冒頭、サンドラが女性からインタビューを受けています。サンドラはワインを飲み、インタビュアーの質問をはぐらかしたりしています。かなりテンションが高い印象です。突如大音量で音楽が鳴ります。サンドラは夫が仕事をしているのだと言います。インタビュアーは困惑しています。サンドラがあらためてにしようと提案し、インタビュアーは帰っていきます。

同時にダニエルが盲導犬スヌープ(だったか…)をつれて散歩に出ます。そして、散歩から戻ったダニエルが血を流して倒れているサミュエルを発見します。

検事は主張します。

サンドラはバイセクシュアルでありインタビュアーを誘惑しようとしていた、それをよく思わないサミュエルは大音量の音楽で自らの存在を主張しようとした、そして、それが原因となって喧嘩となり、かっとなったサンドラが凶器でサミュエルを殴りバルコニーから突き落とした、と。

そして、さらに、前日のものではありますが、サミュエルが録音していた夫婦の口論と殴打音の音声を公開します。

その音声の中で、

サミュエルは、これまで自分はサンドラにあわせて生きてきた、ダニエルの面倒をみ、サンドラのために自分の時間も取れず、自分を犠牲にしてきた、家庭内では無理やり英語を使わされてきたとサンドラを責めます。サンドラが作家として成功した小説ももとは自分のアイデアであり、サンドラがそれを盗んだと主張します。また、ダニエルが失明したときにはサンドラが浮気をしていたと責めます。

それに対して、

サンドラは、自分は何も強要したことはない、それに自分の母国語はドイツ語だと言います。小説のアイデアはたしかにサミュエルのものだが、それをもとに書くことにサミュエルは同意しているし、内容も自分のものにアレンジしている、自分が書けないことを私のせいにしていると言い返します。浮気についてはそのとおりだが、自分にはセックスは必要なものだ(多分、ダニエルの事故以後サミュエルができなくなっている…)し、その女性との性行為は2度だけだと言います。

そして、互いに興奮状態となり、何かを叩く音、何かが割れる音がします。

夫婦のジェンダー逆転…

この夫婦の口論、長く続いてきた男性優位のジェンダー観が逆転しています。

夫は妻のために自分を犠牲にしてきた、妻の作家としての成功も自分との共同作業のはずだと主張しています。夫と妻を入れ替えれば、それが今も続く男性優位社会のジェンダー意識であることがわかります。

で、映画の主題がそこにあるのかと言いますと、それも違うんです。

映画の本当の主題はダニエルにあります。ダニエルの心は揺れ動きます。証言台にも立ち、また裁判官からショックを受けるといけないので傍聴を控えるよう促されても最後まで傍聴し続けます。

ダニエルは父親の死の真実を知っているわけではありません。知っているのは両親の不和であり、それゆえ、母親の殺人、父親の自殺の間で揺れ動いているということです。

そしてラスト、ダニエルは、裁判中付き添いに来ている係官に、なにが真実かわからないと相談します。係官は、なにが真実かわからない時はなにが自分にとって真実かで判断すればよいと話します。

ダニエルが証言します。生前、自分がスヌープが死ぬかも知れないことを相談した時、父親はスヌープは君のために生きている存在だ、いずれ死ぬことがあるかも知れないが、自分もスヌープと同じ立場だと言っていたと語ります。そして、母が父を殺したこととは考えられないが、父が自殺したと考えることはできると証言します。

そして、サンドラは無罪となります。サンドラが家に戻った時、ダニエルはサンドラが戻ってくることが怖かったと言います。サンドラは私もと返します。

意味不明な結末です。翻訳はあっていたんでしょうか。

シナリオがよく練られていないですね。いや、練りすぎですね。主要な人物ではない者が答を言っちゃいけないです。

とにかく本当に面倒くさい映画でした(笑)。