少年の君

よくできた泣けるガール・ミーツ・ボーイだが…

今年のアカデミー賞国際映画賞にノミネートされた中国映画です。

昨年2020年の大阪アジアン映画祭では観客賞を受賞しています。見れば、そりゃ観客賞受賞でしょうという泣かせる感動ものです。

少年の君

少年の君 / 監督:デレク・ツァン

ガール・ミーツ・ボーイ

映画の内容は、ベタなボーイ・ミーツ・ガールならぬガール・ミーツ・ボーイです。ベタであるがゆえに感動もし、涙も流れます。

公式サイトには「壮絶ないじめ、苛烈な受験戦争、ストリートチルドレンなど過酷な社会問題を描いた」とありますが、描かれているというよりは、ガール・ミーツ・ボーイのための装置として使われているだけで批評性があるわけではありません。

そのあたりのことは後回しにするとして、映画のつくりはとてもうまいです。ひとつひとつの手法は新鮮というわけではないのですが、カメラワーク、構図、画のトーン、編集、音の付け方、どれをとってもスキがありません。終盤やや尾ひれが長く感じられますが、全体としてテンポもよく引きつけられます。

主演のチョウ・ドンユィさんとイー・ヤンチェンシー(別名、ジャクソン・イー)さんもとてもいいです。

チョウ・ドンユィさん、冒頭の教師のシーンでは、その童顔からちょっとこの役は無理じゃないなんて思っていたところ、映画はすぐに回想となり、学生時代がほとんどになりますのでなるほどと納得して見ていましたら、何と、現在29歳、映画の製作年が2019年となっていますので、この映画の頃は25、6歳というところかと思います。

キャラはまったく違いますが、いつまでも高校生役ができる前田敦子さんみたいなものでしょうか(笑)。

ネタバレあらすじとちょいツッコミ

教師のチェン・ニェン(チョウ・ドンユィ)が生徒たちに英語を教えています。was は過去、used to は過去のことだけれども失ってしまったというニュアンスがあると語り、例文として This used to be our playground. と復唱させています。次第にチェンニェンの眼差しが過ぎ去った過去へ向けられていきます。

「This used to be our playground」ってマドンナの曲にありますね。これから取っているかもです。

チェンニェン、いじめの標的にされる

映画はチェンニェンの高校(日本でいうところの)時代の過去に移ります。映画の最後に2010年くらいの年代表記がありましたが正確な年数は記憶から消え去っています。多分教師となっているのが製作年の現代あたりで過去がその10年くらい前という感じではないでしょうか。

チェンニェンは進学校に通っており、「高考」という大学入学試験を控えています。

現実もそうなのかどうかはわかりませんが机の上の教科書類がすごいです。学校は教師から教わるところだと思いますが、これじゃ自主学習みたいなものです。そう言えば、教師たちは生徒たちに発破をかけるだけで講義するシーンはまったくなかったです。

女子生徒が校内で飛び降り自殺します。生徒たち皆が遠巻きにスマホで写真を撮ったりしている中、チェンニェンは進み出て自分の上着をかけます。チェンニェンはその生徒がいじめにあっていたことを知っています。なぜ見てみぬふりをするのと言われていたのです。

警察の捜査が入り、チェンニェンも聴取を受けますがなにも喋りません。そして今度はチェンニェンがいじめの標的になっていきます。いじめの加害者は3人、そしてまわりは皆傍観者です。

この時捜査に入った刑事たちも重要な役回りになっています。3人のうち特に若い男性の刑事がラストに物語を動かすことになります。

チェンニェンは母親と二人暮らしです。母親は詐欺まがいの商売をして稼いでいますが貧しいです。借金取りが頻繁にやってきます。

チェンニェン・ミーツ・シャオベイ

学校からの帰り道、ひとりの少年が数人に暴行を受けています。チェンニェンはとっさに警察に通報します。チェンニェンも暴行を受けお金を取られますが、その少年シャオベイが反撃したこともあり男たちは去っていきます。

ここからほぼラストまで、チェンニェンへの執拗ないじめの中でふたりのピュアな恋が描かれていきます。その物語自体は単純なのですが映画のつくりがうまいのでしょう、飽きることなく集中して見られます。

基本的なつくりは、当然ながらチェンニェンにはシャオベイへの警戒心があるわけで、かつチェンニェンは芯のしっかりした強い女性ですので、シャオベイが金を出せば俺が守ってやると好意の裏返しの言葉を掛ければ、チェンニェンは自分も守れないくせにと強気で返したりと、シャオベイの思いは一貫しているのに対してチェンニェンの気持ちが徐々に開かれていくという展開になっています。

ある時(いじめが始まった頃だったか…)、シャオベイが落ち込んでいるチェンニェンを家まで送りますと、家の周囲には母親の詐欺行為を告発する張り紙が無数に張り出されています。母親は家にいられなくなったのかどこかへ行ってしまっています。

母親は悪い人物には描かれていません。生活費は送金してくるようですし、チェンニェンの母親への思いは変わることはないようです。時々電話で話すシーンがありますし、後半では戻ってきています。

で、チェンニェンはその張り紙を必死にはがそうとしますが様々な思いが溢れたのでしょう、泣き崩れてしまいます。シャオベイはバイクでチェンニェンを自分の住まいに連れていきます。

上の画像はバイクで走るシーンのものですがふたりは離れています。後半のバイクシーンではチェンニェンはシャオベイの腰に手をまわし顔を肩に寄せています。

シャオベイは高速道路の下の廃墟のようなところをねぐらにしています。チェンニェンの住まいもそうですが、このふたりの生活環境のシーンは廃墟のようなところを使って撮影されています。社会的格差ということが意識されているのでしょう。チェンニェンはそこから這い上がるために大学を目指しているということです。また、シャオベイは自分はチンピラ(字幕)であり、そこで生きていくしかないと思っています。

激しくなるいじめ加害 

母親を告発するチラシがネット上に拡散されます。まわりからは白い目で見られるようになります。階段から突き落とされたりします。体育の授業では無視されます。ただ、投げつけられたボールを投げ返し反撃することもあります。

その意味ではこの映画が描いているいじめ行為は陰湿なものというよりも目に見える暴力といった傾向が強く、この後の展開でよりはっきりしてきますが、クラスの中に悪いやつがいるといった少し古いパターンのいじめの描き方になっています。もちろん、今現在そうしたことがあるないという意味の古いということではありません。

チェンニェンは刑事に3人のいじめ行為を話します。3人は停学になります。

わたしをまもって

しばらく学校生活が描かれ、ある日、チェンニェンが停学になっている3人に襲われます。必死に逃げ回りなんとか事なきを得ます。チェンニェンはシャオベイのもとに行き、私を守ってと言います。お金はないけどと言うチェンニェンに、シャオベイはノート(チェンニェンの)にシャオベイに借りがひとつと書けと言います。

その日から、チェンニェンの後ろには必ずシャオベイの姿が見られるようになります。

チェンニェンはシャオベイのもとで暮らすようになります。

チェンニェン、襲われる

チェンニェンの学校生活とシャオベイたち仲間の抗争(のような喧嘩)がしばらく描かれ、ある日、婦女暴行事件が起きたとしてシャオベイも警察に拘束されます。ちょうどその頃、チェンニェンが3人とその仲間に捕らえられてしまいます。そして、殴られ、髪を切られ、裸の写真を撮られてしまいます。

警察から開放され慌てて家に戻ったシャオベイは傷だらけで髪を切られたチェンニェンを目にします。あいつら殺してやる!といきり立つシャオベイをチェンニェンが必死に止めます。

シャオベイはバリカンでチェンニェンの髪を落とし、そして自分の髪も全て落としてしまいます。

チェンニェンが北京(大学)へ行って世界を守りたいのと言いますと、シャオベイは俺は君を守ると答えます。チェンニェンはいつかふたり並んで歩きたいと言います。

大学入試試験「高考」一日目です。その日、いじめ加害者のリーダーの死体が発見されます。チェンニェンが暴行された時の動画が押収され、チェンニェンは試験終了後に容疑者として事情聴取されます。しかし、なにも知らないと答えるチェンニェンです。容疑は晴れませんが一旦開放され二日目の試験も終了します。

そして、クライマックスへ

クライマックスへ突入ですが、あれこれありますので簡単に項目だけです。実際に見て泣いてください(笑)。

  • 防犯カメラ映像からチェンニェンの後をつけるシャオベイが浮上し事情聴取されます
  • シャオベイは逃げ、チェンニェンを連れ出します
  • チェンニェンは、何も言うな、自分は未成年だからすぐ出てこられると言い、チェンニェンの服を裂き、頬を殴ります

  • シャオベイは暴行容疑で現行犯逮捕され、その後、死体の爪に残っていたDNAがシャオベイのものと一致し殺人犯として逮捕されます

しかし実は、

  • 「高考」の前、いじめ加害者のリーダーがチェンニェンに話しかけてきます(ちょっと複雑)
  • いろいろあり、チェンニェンが相手を振り払いますと相手は階段を転げ落ち死んでしまいます
  • シャオベイは友人から車を借り、警察に聞かれたらありのままを言えと言います
  • その車で死体を運び、自分の体に死体の爪でひっかき傷をつくり死体を埋めます(画はない)

ということがあったということです。

シャオベイは自分がやったと言い、チェンニェンは何も知らないと口を閉ざします。しかし、若い刑事はふたりの関係になにかあると感じ、取調べ中にふたりを会わせて何かを引き出そうとします。しかし、ふたりは口をつぐんだまま見つめあうだけです。

後日(ちょっとわからない)、刑事はチェンニェンに会い、シャオベイに死刑判決がおりたと言います。未成年のはずと驚くチェンニェンに騙していたのだとカマをかけます。刑事はふたりの嘘を確信したのでしょう、チェンニェンをシャオベイに面会させます。ふたりは見つめあって涙を流します。

そして、現在

冒頭の教師チェンニェンのシーンに戻ります。「This used to be our playground」とリピートさせながらチェンニェンの目はひとりの女子生徒に注がれています。その生徒は始終うつむいたままです。いじめられているのでしょう。

授業が終わり、チェンニェンはその生徒のもとに行き、そして連れ立って帰っていきます。その後ろからシャオベイがふたりを守るように歩いてきます。

この映画のいじめや受験戦争は純愛ものの装置

やはりこの映画、いじめの悪質さや受験戦争の過酷さを描いているわけではなく純愛物語の装置として使われているだけです。

純愛は何らかの障害がなければ成り立ちません。オーソドックスなところでは階級や社会的地位の違いによる親(社会)の反対になるのですが、この映画のふたりの境遇は同じですので一見障害はないようにみえます。それに、そもそも親の存在もみえません。なのに純愛が成り立つのは受験戦争という装置でふたりの将来に社会的な格差を暗示させているからです。そして、いじめはそのふたりをより強固に結びつけるための力に使われています。。

この映画で社会的な存在と言えば、教師と刑事です。しかし、そのどちらも善人として描かれています。特に刑事は、ふたりに寄り添い、より良い結果を生むために尽力します。

これが日本であれば、教師も刑事もふたりの純愛の障害として登場するケースのほうが多いと思います。その意味ではこの映画はつくる側も感じていない中国映画ゆえの官製的映画なんだろうと思います。ある種、ふたりのハッピーエンドも、そして、エンドロールに流れる、2018年(だったか?)いじめ防止法が制定云々といったスーパーもそれを示しています。

これは一概に批判ではありません。中国の映画事情とはこういうものなんだと思えるということです。

こうした涙を流すような感動ものもたまにはいいのですが、見終わった後、ふーとため息を漏らすような感動こそを味わいたいものです。

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