女性の友情物語をバディムービーっぽく
やろうとしていることが明快で気持ちいい映画ですね。それに面白いです。
監督はオリヴィア・ワイルドさん、俳優としてのキャリアは16年くらいで監督としてはこの映画が初の長編とのことです。脚本に4人の女性がクレジットされており、特にケイティ・シルバーマンさんとは信頼関係が強く、すでに次作も共同で制作されることが決まっているようです。原題が「Don’t Worry, Darling」という映画のことですね。
やりたかったことが何かはワイルド監督のインタビューを聞けばよくわかります。
女優オリヴィア・ワイルド初監督が単なるガールズムービーではないと語る映画『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー』インタビュー
まず第一に「女性の友情物語」を描きたかったと語っています。
女性の友情物語といいますと(私は)「テルマ&ルイーズ」を思い浮かべますが、あの映画には時代が時代ですので常に男の影がちらついており、そうした男性社会からの脱出がテーマとしてあったと思います。
この映画にはそうした抑圧構造としての男性社会というものはイメージされていないようで、主人公のふたりを男女逆転させても、面白いかどうかは別にして完全に成り立つ物語です。
ただ、それは社会が変わったということを意味しているわけではなく、ひとつにはこの物語が社会へ出る前の高校生の話だからであり、またふたり以外の登場人物を徹底的にキャラ化して描いているからです。
この映画は男女の性別を感じさせないように作られています。
エイミー(ケイトリン・デヴァー)とモリー(ビーニー・フェルドスタイン)はハイスクール4年間を将来のためにいわゆる真面目に過ごしてきており、モリーはイエール大学、エイミーはコロンビア大学への進学を決めています。
卒業式前日、学校内は相変わらず(ふたりの視点からは)落ちこぼればかりで、さらに今夜のパーティーをひかえて皆ハイテンションです。
という、ふたりは優等生だが冴えない女の子(nerdy girls)つまり book smart で、他の同級生たちは street smart という設定です。ただ、実際にはさほどそれが明確にそれらしく見えるわけではありません。なにせ他の人物のキャラがとにかく濃いーのです。
チャラ男系のニック、ヒスパニック系で超ロン毛のテオ、メガネっ娘のライアン、アフリカ系で俳優志望(?)のアラン、演出家気取りのジョージ、バブリーなジャレッドと神出鬼没のジジ、スケボー男のタナー、(キャラ不明の)トリプルA、ホープ、それにブラウン校長、教師のミス・ファイン、エイミーの両親の大人たちもかなりキャラが立っています。
エイミーとモリーにしても冒頭のダンスシーンはノリノリですし、二人の会話は楽しそうで4年間何かを我慢してきた印象はなくまわりの濃いー同級生たちから浮いているようには見えません。
この映画、一見フェミニズムを意識した映画かという気もしましたが、その志向はあまり強くはなく、インタビューでもティーンの女性たちの友情物語を「ビバリーヒルズ・コップ」や「リーサル・ウェポン」といった buddy cop もののように描きたかったと語っている通りです。
ですのでこの映画が一番力を注いでいるのは、そもそも卒業パーティー(プロム)など参加するつもりがなかったふたりがどこで開かれているかも知らないニック主催のパーティー会場を探し出して参加するまでのくだりです。時間的にも映画の半分くらいをしめていたと思います。
参加する気になった理由は、モリーが見下していた落ちこぼれたちが実は青春を謳歌して遊んでいただけではなくしっかり勉強もして、自分と同じようにイエール大学やスタンフォード大学という名門大学への進学を決めていたり、Googleにスカウトされていることを知り、なんて自分は馬鹿だったの、今からでも遅くない、ハイスクール最後の日を楽しんでやる!ということになったということです。
ただエイミーはあまり乗り気ではありません。
このふたりのキャラ設定は、モリーがリーダータイプでエイミーに対しても私があなたを引っ張っていかなくっちゃと思い込んでおり、エイミーはそうしたモリーの気持ちを理解した上でそれに従うことがベストの選択と考えているようなところがあります。
でもエイミーは自立心の強い人物です。それは将来の選択にあらわれています。ここはうまい設定だなと思いますが、エイミーはコロンビア大学の進学の前に1年間アフリカのボツワナへボランティアで行くことを決めています。
その経緯は、この映画の(隠れた)クライマックスであるかなり長いワンカットのふたりの言い争いの際に火に油を注ぐ的に使われています。
その前に映画の流れですが、ふたりがニックのパーティー会場を探し当てるまではまさしくバディムービーっぽくつくられており、ふたりのテンポのいい会話とタイミングよく挿入される音楽で飽きさせず、他の濃いーキャラが意外にもみんな真面目じゃんみたいなことを見せながら楽しませてくれます。
もうひとつ、実はモリーはチャラ男系のニックに気があり、エイミーはレズビアンとしてメガネっ子のライアンに気があります。
そして、やっとふたりはニックのパーティー会場にたどり着きます。この時、この映画のいいところでもあり、またエンターテイメントから脱しきれずそれゆえに映画として物足りないところでもあるのですが、ふたりはまわりから浮いているわけではありません。ニックはモリーを歓迎し、誰ひとりとしてふたりを特別視することもありません。
つまり、この映画のテーマがある集団の人間関係、つまりはそれが大人の世界ということなんですが、そこに焦点をあてているのではなくただ一点、モリーとエイミーの友情を描くことにあるということです。
モリーはニックとうまくいきそうな妄想をみ、エイミーはエイミーでこれまで臆して近づけなかったライアンと親しくなることに成功、しかし当然ながらふたりともにあえなく撃沈、そのフラストレーションから口論になります。
ここがこの映画の一番の見せ場だと思います。ふたりの横からのツーショットでとめどなく続く言い合いをワンカットで撮っています。言い合いですから細かいことは大したことではなく、要はモリーにしてみれば私がいなければあなたは何もできない、エイミーにしてみればあなたがいるから私は自由になれないみたいなことで、エイミーのボツワナ行きについてはどうもモリーは知らなかったらしく、エイミーがそれを言い出しますとモリーはそれは私が勧めたからでしょと言い、エイミーはそれはこの夏の(短期のボツワナ行き?)ことで1年休学していくことは自分で決めたと言い返します。
そしてふたりは決裂、多分4年間で初めての決定的な喧嘩でしょう。
これですと修復にはそれなりの理由付けが必要になりますが、映画はかなり強引に解決しています。パーティー会場に苦情が入ったのでしょう、警官がやって来ます。エイミーは私が犠牲になるからみんな逃げてと言って警官に向かって突進していきます(意味がわからんけど)。そして逮捕。翌日、モリーが警察に指名手配犯を教える(省略(笑))ことと引き換えにエイミーを釈放させ、ふたりで卒業式に向かいます。
モリーは生徒会長としてスピーチをします。ここで泣かせようとするのかなと思いましたが、どうやら感傷的なことは避けようとの意志があるようで割とあっさりしていました。
そしてエイミーはボツワナに旅立っていきます。ここも別れの感傷に浸って終わりになるかと思いましたら、軽くひっくり返して最後まで軽いコメディータッチで終えていました。
アメリカじゃ青春ものと言えどもここまで来ているのに、日本じゃ相変わらず男女の純愛ものか、男女どちらかの喪失ものかという(見ていないのに言うな!)残念なことではあります。