ニュージーランド映画です。監督はゲイソン・サヴァットさん、映画界でのキャリアは30年近くありますが、これが初の長編とのことです。カメラクルーとしてスタートし、2000年代後半に入ってからテレビドラマやCMのディレクターとなり、映画では2009年に短編1本がクレジットされています。そしてこの「ドライビング・バニー」です。
バニー・キングの正義
その邦題やメインビジュアルからは軽やかなロードムービーの印象ですが、まったく違いますのでご注意を(笑)。
原題の「The Justice of Bunny King」のとおり「バニー・キングの正義」が「社会正義」とぶつかるという話です。画像の水切りワイパーをもっている女性がバニー・キングで、隣は姪のトーニャ、15歳くらいの設定だと思います。
そもそも映画の中にこの二人がこんな笑顔を見せるシーンなんてありません。悪い意味ではありませんが、映画はほぼ全編混乱の極みです。バニー(エシー・デイヴィス)がいろんなことをやらかします。バニーは考えるよりも先に行動にでるタイプです。ですので、バニーの印象はあまりよろしくありません。常に犯罪行為スレスレですし、いや、犯罪行為そのものもあります。
映画ですので仮に犯罪行為であっても同情できたり、ときには共感できたりすることもあります。しかしこの映画はそうした視点では作られておらず、バニーの行為をそのまま見る者にぶつけてきます。バニーがこうするにはそれ相応の理由があるんだよなどと見る者の感情をやさしくくすぐったりしません。まず何かことが起きて、どういうことだろうと疑問を感じつつ見ていますと、後にその訳が知らされるというつくりの映画です。
ですので、そうなんだ、でもなあ…となります。
ただ、監督のインタビュー記事を読みますと、バニーのキャラクターを好意的に捉えて描いているらしく、その行為も母性にとっての社会正義だと語っています。
バニーの正義の1
バニーは路上に停車した車のカーウォッシュの日銭稼ぎをして暮らしています。住まいは妹夫婦の家に居候です。代わりに家事や子守りをしています。仕事を終え、身繕いして某所(児童福祉施設?)に行きます。5歳くらいの女の子がやってきますとバニーの目が輝き駆け寄ります。子どもがママ!と叫び、バニーは子どもを抱きしめます。
このシーンの前に生活環境の描写がありますので、バニーは何らかの理由により親権を失って指定日にしか子どもと会えないんだなということがわかります。こういうところはとてもうまいです。細かいカットをつないでバニーのキャラクターや生活環境を最初の2、3シーンで表現しています。
親権を失った理由は後に3ヶ所(くらい)にわけて極めて簡単に知らされます。まず、妹夫婦の話(だっと思うが…)でバニーが刑務所に入っていたこと、そしてまた別のシーンでそれが夫殺しの罪であることがわかり、その後どこかのシーンでバニー自身が夫が子どもに暴力を振るったからと語っています。それだけです。
かなり独特だと思います。本当にバニーに正当性があったかどうかは見るものにはわかりません。なのにそれを伝えようとする意識もあまり感じられません。子どもを守ろうとしたんだから当然ということなのか、殺人という行為に対する意識の違いなのか、映画の主題がそこにないから置き去りにされているのか、よくわかりません。この夫殺しの正当性に触れておかないとこの映画のバニーの行為はなかなか擁護しづらいのではないかと思いますが、これも意図したことなんでしょうか。
ああ、ひょっとして、子どもが5歳でママ!と歓声を上げるということは刑期は長くて3年くらいと考えられ、正当防衛が認められて罪が軽減されているということかもしれません。どうなんでしょう?
バニーの正義の2
バニーはある日、姪のトーニャ(トーマシン・マッケンジー)が義理の父親に性的行為をされている(ように見える)ところに出くわします。バニーはドアを蹴破りトーニャを救い出します。
これがよくわからないんですね。このシーンの画だけではそうであるかどうかはわかりませんし、義理の父親は否定しますし、トーニャも明確な意志は示しません。
性的行為があったかなかったかを問題にしたいのではなく、これは映画ですから、サヴァット監督には曖昧にしておこうという意思があったんだろうと言っているだけです。このケースもバニーの過去が明らかにされるパターンと同じで、後にトーニャは母親が父親をおもんばかって自分の思いを聞いてくれなかったと明かします。現実には、意思に反する性的行為の被害者は声を上げにくいということがありますが、この映画はその点に焦点をあてているわけではありませんのでやはり何らかの理由により、あえてぼかしてあると考えざるを得ません。その理由がわかりません。
結局バニーは妹夫婦の家を追い出されます。ここからバニーは2つの目的のために突っ走ります。ひとつは5歳の娘の誕生日を祝うこと、そしてもうひとつはトーニャを救い出すことです。
バニーの正義の3、全ては母性?
バニーはまず妹の夫に執拗に攻撃を仕掛けます。車にスプレーで SCUM(かな?)とペイントし、車のサンルーフをこじ開けて車の中におしっこをし、後にはその車を盗み、トーニャを救い出します。
このあたりのトーニャもやはりどこか煮え切らず迷いを感じさせます。現実にはあり得る反応だと思いますが、バニーの行動パターンとの落差が大きすぎてなにか引っかかります。
とにかくここでやっと「ドライビング・バニー」になります(笑)。ただ、ドライビングはあっという間に終わります。
娘の里親を訪ねますが、バニーがあまりにも規則違反を犯しますので子どもたち(書いていませんが10歳くらいの兄がいます)は移動させられています。バニーはさらにあれこれ不法(的)行為を犯し、子どもたちの居場所を探り出しその地に向かいます。
目的は娘の誕生日を祝うことですので、そのためのデコレーション用品をスーパーマーケットで万引きし、ケーキはどうしたんでしたっけ? 記憶していませんがとにかくバースデーケーキをもって子どもたちのいる町に向かいます。
わかっているのはその町の名だけですので、まずはその町の児童福祉施設に行き、あれこれ嘘をついて居場所を聞き出そうとします。しかし、うまくいかず、職員が警察に通報します。警察に包囲されます。バニーはその施設の所長を人質に籠城します。
この女性の所長、その行動にどこか芯が通っていて存在感あります。バニーに逆らうでもなく、自ら人質になっているようでもあり、常に行動は冷静ですし、スキを見てバニーの経歴を調べたりし、その後バニーがその所内に誕生パーティーの飾り付けを始めればそれを手助けしたりします。
所長がバニーの過去の犯罪歴をパソコンで調べた結果について、字幕では、本人は子どもをかばって(救おうとして)の行為と主張していると出ていました。そのニュアンスの通りだとしますと、シナリオが真面目ですよね、本人の主張としか出さないんですね。こういう真面目さといいますか、ていねいさはなかなかのものです。かなり細かいところまで作り込まれています。
バニーは子どもたちをつれてくることを要求して所内にパーティーの飾り付けをしているわけですが、子どもたちは来ません。その代わり狙撃班が動員されます。ここでも所長が行動します。そんなことができるかどうかは置いておいて、所長は電話をしてバニーに子どもたちを話をさせます。
子どもたちとの会話も映画的盛り上げをしようとするわけでもなくかなり現実的です。こういうところはとても好感が持てます。
バニーは投降しようします。しかし、狙撃され肩を撃ち抜かれます。ストレッチャーで搬送されるバニー、そして、どういうことかはわかりませんが、トーニャが一人で車を運転して走り去っていきます。
ていねいなつくりが仇か?
最後にバニーを殺さなところも好感が持てます。映画のつくりもとてもていねいです。バニーの行為も細部をとらえた細かいカットをつないで実によく描けています。それだけにエシー・デイヴィスさんの強い個性も相まって、意図に反してバニーが強烈になりすぎているのではないかと思います。もう少しトーニャにその比重を移していればさらによい映画になったのではないかと思います。
こうした母性の描き方はアメリカでは受けそうに思いますし、映画づくりの力もハリウッドで通用するように感じます。それが望みならそうなるといいと思える映画です。