渇きと偽り

ひりひりする渇きも足りず、偽りの後ろめたさも描かれず

俳優のエリック・バナさんがベストセラー小説のジェイン・ハーパー著『渇きと偽り』にほれ込み、主演とともにプロデューサーも買ってで出たというオーストラリア映画です。

渇きと偽り / 監督:ロバート・コノリー

原作を想像してみると…

この映画を見て原作の『The Dry(渇きと偽り)』が世界的なベストセラー小説だと理解するのはかなり難しいです。

犯人は一体誰なのかを追っていくミステリーとするならば、その謎を解いていく過程に驚きと高揚感がありません。謎解きドラマは、主人公がほんの些細と思われるようなことを組み合わせながら最終目的の大きな謎に迫っていくからこそ、おお、そうだったのか?!とテンションも上がるわけで、この映画のようにラストになってバタバタバタっと実はこうなんだよと言われても、ああ、そうだったのとしか言いようがありません。じゃあ、どんでん返しを狙っているかといえばそんなこともなく、2つある謎のどちらも映画の中ごろになりますとおおよその見当がついてきます。

また、日本の公式サイトにはクライムサスペンスとありますが、サスペンスというには緊迫感がなさすぎます。主人公のアーロン(エリック・バナ)が謎を解いていくわけですが、その過程で危険にさらされるわけでもなくハラハラドキドキするシーンも皆無です。そうした身の危険だけではなく、本当ならばアーロンが自分の過去に対して苦しまなくちゃいけないその切迫感もありません。

この小説、ニューヨークタイムズのベストセラーリストに入るくらいの小説ですのでそんなはずはないだろうと、読んでもいない者が映画を見ただけでその面白さを想像してみます(笑)と、面白さの要素は3つではないかと思います。ひとつは、設定となっている環境が生み出す切迫感、ふたつ目は人間関係の閉塞感、そして最後がアーロンの悔恨と苦悩、これら3つが絡み合ってアーロンの内的心理状態が小説に反映していくのではないかと思います。違っているかもね(笑)。

干ばつと閉鎖的コミュニティ

オーストラリアのメルボルンから5時間の架空の町キエワラで農場経営者ルークが散弾銃で妻と子どもを殺害し自らも命を絶ちます。2年も続く干ばつのために経営が行き詰まったための自殺と考えられています。

メルボルンで連邦警察官として働くアーロン(エリック・バナ)は、ルークの父親から息子が自殺するわけはない、葬儀に来てほしいと頼まれます。アーロンとルークはハイスクール(くらいだと思う)時代の親友です。ただ、ある事件があり、アーロンがその事件の犯人と疑われたがために父親がアーロンを連れて逃げるようにキエワラをあとにしているのです。

その事件とは、アーロンとルークの遊び友達であり、またアーロンが好意を持っていたエリーが溺れ死に、その時に、エリーが川で待っているとのアーロンの書きつけを持っていたために殺人を疑われたということです。

この2つの事件をアーロンが解き明かしていくのが映画の基本的な軸です。そしてその背景となるのが2年も続く干ばつからくるギスギスした人間関係と閉鎖性です。

が、それが映画に出ていません。

アーロンが車でキエワラに向かう空撮のシーンや広大な土地のシーンなどは、たしかにオーストラリアやねぇとは思いますが、見ていて喉が渇いてくるようなヒリヒリ感が画から滲んできません。エリーが亡くなった川も今は全く水がなく渇き切っています。が、あれ、川に見えません。実際に川だったのなら撮影がうまくありません。アーロンがエリーの溺れた川を見る過去のシーンがありますので、なぜ現在のアーロンをあの位置に立たせないのかと思います。いくらでも映像処理できるでしょう。

とにかく、「渇き」が足りません。水、さらに言えば人々に潤いへの渇望感がありません。

土着民と外来者

閉鎖的コミュニティ感もあまり感じられません。

登場人物をみてみますと、土着民と外来者に分けられていることに気づきます。アーロンの父親がアーロンを連れてキエワラを去るとき、いとも簡単に車で町を出ていきます。アーロンの父親は医師であり、外部からキエワラにやってきているということです。日本で言えば過疎の村に赴任した医師です。

その後を継いた医師がいます。当然外来者であり、本人もそれを口にしています。ん? あの医師、20年もこの地で働いているような年齢に見えませんでしたね。間に何人かはさんでいるということなのでしょうか、でもそうだとするとアーロンをみて即父親に結びつくというのも変ですし…まあいいか(笑)。とにかく、この医師、割とよく登場しますし、事件からは遠いところにいますのであるいはこの医師が犯人かと思いながら見ていましたら、なんと後半になり突然同性愛者だと明かされていました。

であるなら、もう少し閉鎖的コミュニティの差別をうまく物語の中に取り込めばいいのにと思います。おそらく原作には人々の疑心暗鬼がもっと強く描かれており、その一つの要素として描かれているのだと思います(想像します)。映画はあまりに唐突です。

もうひとり外からやってきたことを自ら語っていた人物がいたと思いますが、学校の校長先生ホイットラムだったでしょうか、いや、違いますね、思い出せません。

とにかく、この物語を深めるためには、うわべは外来者を受け入れているようにみえても結局よそ者として排除してしまうという村社会的閉鎖性が必要なんですが、映画はなかなかそうはいかず、オーストラリアの広大な爽快感のほうが前面に出ています(私だけかも(笑))。

あえて言えば、コミュニティの閉鎖性はエリーの父親と兄(なのかな?)がその役割を担っているのですが、娘エリーを殺したのはアーロンだと思い込んでいるがために、いやいや違いました、アーロンに濡れ衣を着せるためにアーロンへの直接的な攻撃が強調されており、悪役に深さがありません。パブのシーンでももっとギスギス感やイライラ感を出すべきです。もっとねちねちやればいいのにと思います。

犯人は一番怪しくない人物

ミステリーであれば、アーロンの捜査(調査)が進む中で誰彼が犯人かもしれないと匂わせるものですが、この映画にはそれもありません。ですので、見ていても、一体犯人は誰なんだろうという、ミステリーには一番大切な推理の楽しみがありません。

映画も中盤になりますとおおよそ犯人の予想がついてしまいます。こうした映画のパターンである、一番怪しくないのに割と絡んでくる人物が犯人ということです。登場人物をみてみますと、まず上に書いたエリーの父親と兄、医師、校長先生ホイットラム、そして少年時代の4人組であるアーロン、ルーク、エリーのもう一人の仲間グレッチェン(ジュネヴィーヴ・オーライリー)ですので、この中の誰かということになります。

グレッチェンは荒野でうさぎを撃つシーンを入れたりして、もしやという見せ方をしていますがあり得ません。また、グレッチェンの子ども(母子家庭)がルークの子どもであるとしてその愛憎関係からの事件にも見せようとしています。うまくはいっていませんが、過去のエリーの死亡にも関係しているのではないかとの意図もありそうです。なぜあり得ないかはそう見せようとしているからです(笑)。それにこういう映画のパターンで、男女関係も必要だろうという思い込みからのものでしょう。冷静に考えれば、グレッチェンはエリーの死についてなにか知っているかもしれないわけですし、あれだけのフラッシュバックを入れるだけの過去への悔みがあるのなら、男女関係ではなくもう少し緊張感のある人間関係で描くべきでしょう。

ということで、ルーク家族殺しの犯人はホイットラムしかいないなあと想像がつきます。ただ、動機がわからないんですね。

原作ではアーロンは連邦捜査員であるにしても経済関係の捜査員のようです。ルークの父親がルークの帳簿をみてほしいというのもそれだからこそですし、最後にホイットラムが犯人だと気づくきっかけとなった Grant のキーワードにしても、それが人物名ではなく、融資の意味であるという、これがこの小説の肝であることをおろそかに扱っています。

それにしても、ホイットラムは誰彼がやってきてルーク家族を殺せと言われてやったと言っていましたが、いくら何でもミステリーのオチとしては適当過ぎます。

エリック・バナを立て過ぎ

一番の問題はスター俳優であるエリック・バナに頼り過ぎ、と言いますかそうせざるを得ない環境に問題があるのでしょう。

アーロンはエリーの死について嘘をついています。父親にラストクエスチョンのように尋ねられるシーンでも嘘をつきます。アーロンにその悔恨はないのでしょうか。そもそもアーロンはキエワラに戻りたかったわけではないでしょう。その迷いも描かれていませんし、キエワラでの振る舞いにしてもなんの苦悩も感じられません。堂々たる捜査官の振る舞いです。

これがこの映画をつまらないものにしている一番の原因でしょう。

そうそう、エリーの死です。映画の中ほどでその訳はわかります。具体的に自殺なのか殺人なのかまではわかりませんが、父親の性的虐待であることは、エリーの振る舞いや父親の描き方でわかります。

それにしても、ラストのワンシーンでそれを解決してしまう映画づくりはどうなんだろうと思います。

こんな原作ではないはずだと早速図書館で予約しました(笑)。