「僕を産んだ罪」で両親を訴える子どもの絶望
ゼインという、実名と同じ役名の12,3歳の少年を演じているゼイン・アル=ラフィーアくん、下の画像の少年ですが、彼の演技があっての映画です。俳優ではなく、シリア難民で、現在は家族とともにノルウェイで暮らしているそうです。
この映画で描かれる貧困や児童婚はあってはならないことですし、ナディーン・ラバキー監督を含めこの映画の作りてたちが訴えたいことはよくわかりますが、こうした物語を、こうした視点で描くことからそろそろ脱するべきではないかと思います。
こうした物語というのは、ひとことで言えば悲惨な環境にある子どもたちの物語です。
レバノンの話です。ゼインたち家族は難民ではありません。なぜ極貧の環境にあるかは語られません。両親と数人(以上?)の兄弟姉妹と暮らしています。ゼインは親が出生届を出さなかったために年齢さえわからず、12,3歳という設定です。おそらく子どもたち皆、出生届はないのでしょう。11歳の妹サハルとふたりで、アサード(どういう存在かよくわからない)という男が営む店の下働きをしています。両親に収入があるかないかも語られません。
サハルがアサードと結婚させられようとします。児童婚です。両親がお金のために11歳の娘を売るということです。ゼインは必死に妹を守ろうとしますが、両親に聞き入れられません。
それを機にゼインは家を出ます。遊園地の清掃の仕事をしているエチオピアからの難民ラヒルと出会います。ラヒルは乳飲み子ヨナスを抱えています。アスプロという男から偽造の身分証明を買っていますので不法滞在ということです。ゼインはラヒルの住まいで暮らすようになり、ヨナスの面倒をみるようになります。
しばらく、それなりに順調にいっていましたが、ある日、ラヒルが不法滞在で捕まります。ゼインはそのことを知りませんので、町中を必死で探し歩きます。
映画は、こうしたゼインの行動をハンディカメラで追う映像を中心につくられています。ここが映画の時間的にも半分ほどを占めていたと思います。実時間では半年から1年くらいでしょうか。いろんなことが起きますが、ほとんど、ゼイン・アル=ラフィーアくんの悲しみをたたえた眼差し、大人たちに負けじと強がる言葉や行動に頼ってつくられています。
ラヒルの住まいからも締め出されたゼインはさすがにヨナスの面倒がみられなくなります。以前からヨナスを売ればその金でスウェーデンへ行けると声をかけられていたアスプロに400ドルで売ってしまいます。ただそのためには出生証明か身分証明が必要と言われます。
書類を探しに家に戻ります。どこへ行っていたのだと叱りつける両親、言い争いの中で、(病院の書類だったか?)サハルの死を知ります。ここでは明かされていなかったと思いますが、サハルは妊娠し、その後大量出血で亡くなったということです。
ゼインはナイフを持って飛び出します。そして、アサードを刺します。画はありません。
ゼインは刑務所に入っています。母親が面会にきます。サハルの話をしていた時だったと思いますが、母親がいいこともあるのよ、子どもができたのと言います。ゼインは母親に冷たい視線をおくり席を立っていきます。
そして、ゼインは両親を訴えます。何の罪でと聞かれたゼインは、「僕を産んだ罪で」と答えます。
長くなりましたが、という物語です。で、その物語をこの映画がどんな視点で描いているかですが、これまたひとことで言えば、善意の大人の視点です。
悲惨な子どもを描くことはドラマになりやすいです。誰だって怒りを感じますし、涙もこぼれ、同情も誘われます。さらにこの映画では過剰な音楽をかぶせてドラマチックさを強調しています。そうした描き方自体も善意の大人視点ではあるのですが、さらにこの映画のラストは目に見えるものとしてそれを描いています。
ゼインに身分証明がつくられます。カメラの前に立つゼイン、悲しみをたたえた顔のゼインに係員が死亡証明書じゃないんだからと声をかけます。ゼインに笑顔がこぼれます。また、アスプロは摘発され、ヨナスはラヒルのもとに戻されます。
悲惨さを強調しておいて、善意の大人もいるんだよではなく、あの両親やアサードやアスプロがいったい何を考えているのか、なぜああしたことができるのかを突き詰めて描くべきではないかということです。
もちろんレバノンの状況はわかりません。ですのでこの映画の持つ意味も日本で見るのは違うのでしょう。しかし、日本でも子どもへの虐待が頻繁に起きています。そうした事件を知れば涙も出ます。ただ、どんなに同情しても、なぜ親が子どもにそんなことができるのか、大人である親に何が起きているのかを解明していかなければ何も変わりません。
もちろん、その解明を映画に求めているわけではありません。大人を描くべきということです。