瞳をとじて

とじた瞳にうつるものは、よみがえった記憶なのか、あるいは追憶なのか…

ビクトル・エリセ監督、31年ぶりの長編です。現在83歳ですし、50数年のキャリアがありながら長編は4本しか撮っていない寡作の監督ですから、この映画が最後の長編ということになりそうです。ただ、IMDb を見ますと2000年以降は短編をコンスタントに撮っているようですし、それ以前も単にデータが落ちているだけかもしれませんので寡作に見えるだけということも考えられます(想像です…)。

瞳をとじて / 監督:ビクトル・エリセ

フリオの失踪、未完の映画…

映画の基本的なプロットは、20年ほど前に俳優の失踪によって未完となってしまった映画の監督が、テレビ番組から取材を求められ、その過去と向き合うことになるという「よみがえる記憶」の物語であり、また、見つかったその俳優が記憶を失っているという「失われた記憶」の物語でもあります。

日本の公式サイトの「DIRECTOR’S NOTES」に「2つのテーマ ”アイデンティティと記憶” を巡って展開する」とエリセ監督自身の言葉があるのは、そういうことなんだろうと思います。映画の中に老いとどう向き合うかなどという言葉も出ていました。

映画は、20年ほど前の1990年代に撮影がスタートしながら未完となった映画のオープニングシーンから始まります。どういう背景のどういう内容の映画かを読み取るのはかなり難しいです。

1947年、木々に囲まれた田舎の邸宅で高齢の主がピアノを弾いています。海外の記事によりますと、フランコ独裁政権下のスペインからフランスに逃れた Triste-le-Roi (The Sad King、悲しみの王)と呼ばれるユダヤ系スペイン人の設定だそうです。中国人の執事が男の訪問を告げます。男は反ファシズムの人民戦線派と思われ、悲しみの王は男に、中国人との間に生まれた娘を探してほしいと依頼します。娘は母親から学んだしぐさを身につけていると言い、その写真を男に渡します。

ビクトル・エリセ監督の過去の映画などをよく知っていれば、なぜ中国人なのかにも意味があるのかもしれません。また、依頼主の男もかなり特徴的でしたし、邸宅の庭のヤヌスの神の彫像も意図的に見せていましたので、それらにもエリセ監督の何らかの意図があると思われます。ただ私にはわかりません。

この劇中映画のタイトルは「The Farewell Gaze(別れのまなざし)」というもので、捜索を依頼された男を演じている俳優フリオ・アレナス(ホセ・コロナド)が撮影途中に失踪したために未完となったということです。

この冒頭のシークエンスは、そのエンディングシーンが上映されるラストのシークエンスと対になっています。未完となった映画のオープニングとエンディングが、この完成された映画「瞳をとじて」のオープニングとエンディングになっているということです。

映画への思いと追憶…

そして、その間に20年ほど経った2012年の物語が挟まれているつくりになっています。

2012年、その「別れのまなざし」の監督ミゲル・ガライ(マノロ・ソロ)は、過去の未解決事件を扱うテレビ番組の取材に応じます。フリオの失踪は、海に面した崖に靴が揃えて置かれていたことから自殺と思われたものの真相はわからないままになっているということです。

ミゲルはテレビ番組のディレクターからフリオについてのインタビューを受け、さらにフリオの娘アナ(アナ・トレント)へのコンタクトを依頼されます。また、残されたフィルムを保管しているマックスを訪ねたり、当時自分も思いを寄せていたもののフリオを選んだ女性ロラと会ったりします。

ビクトル・エリセ監督の手法がそうなのかも知れませんが、この映画、あまり強い思いが伝わってくる映画ではなく淡々とことが進みます。最初にこの映画のテーマのひとつが「よみがえる記憶」だと書いたのはこのミゲルのことを言っているのですが、映画からはミゲルがなぜ20年前のことについて取材を受けたのか、また失踪したフリオについてどう思っているのかははっきりしていません。

映画では取材に応じたのはお金のためだと言っていますが、そんな映画的ではない理由に意味がありませんし、実際、ミゲルはフリオの失踪以後、映画業界から離れてアルメリアの海岸沿いでトレーラーハウス暮らしをしており、隣人たちとも心地よい関係を持っているわけです。作家とは言っていますが、本人が大したものは書いていないとも言っています。

映画的にはフリオの失踪がミゲルの人生に影響を与えていると示してわけですから、実は明らかにすべきはフリオの失踪の理由ではなく、ミゲルの20年間じゃないかと思います。

私はこの映画を見てそう感じましたので、この2012年のパートがとても冗長に感じます。言ってみれば、この2012年のパートはミゲルの記憶がよみがえるというよりも、当時のフリオがどういう人物であったかを説明しているだけにしか見えないということです。

なぜミゲルが20年間映画業界から身を引いていたのかわかりません。このあたりビクトル・エリセ監督自身の31年間にも関わってくることだとすれば、やはり31年間に特段の意味はないのだろうと思います。

このパートでは「ミツバチのささやき」の少女を演じていたアナ・トレントさんがフリオの娘のアナ役で登場したり、フィルムを保管しているマックスのシーンでは、フィルム缶の中にはたしかに20年前の過去が保存されていることを示したりと、そうしたところに多くの意味を託しているんだろうとは思います。

つまり、映画への強い思いと追憶じゃないかと思います。

よみがえるのは記憶なのか、追憶なのか…

テレビ番組が放送されます。番組ディレクターから電話が入り、視聴者からフリオではないかと思う人物がいると連絡があったと言ってきます。

修道院が運営する高齢者施設です。その人物は入居者ではなく、記憶を失った状態で見つかり、手先が器用であったことから施設の用務員のような立場で暮らしています。男は中国人の女性の写真を持っています。

ミゲルが修道院を訪れます。その人物はフリオです。

ただ、このパートもドラマチックなことが起きるわけではありません。ミゲルは数日間修道院に滞在し、慎重に慎重にフリオに近づき、フリオの記憶がよみがえることを期待します。

しかしフリオの「失われた記憶」がよみがえることはありません。

このパートの意味合いもあまりはっきりしていません。ミゲルはアナを呼び寄せますが、対面しても特に何かが起きるわけではありませんし、船員時代の紐の結び方を記憶していることが示されますが身につけた記憶の回復程度の意味合いです。

ミゲルが「別れのまなざし」のラストシーンを見せることを思いつきます。マックスにフィルムを持ってこさせて閉館した村の映画館で上映することにします。

閉館した映画館、その映写室、マックスが映写機を見て自分の持っているものよりものがいいと言っています。こういうシーンを見せたかったんじゃないかと思います。

「別れのまなざし」のラストシーンが上映されます。フリオ演じる男が中国人の女性を連れて悲しみの王のもとにやってきます。悲しみの王は病に臥せっています。女性が母から学んだしぐさを見せます。悲しみの王は娘との再会を喜び、そのまま娘の手の中で息を引き取ります。娘が悲しみの王のまぶたを下ろします。

スクリーンを見つめるフリオ、記憶が戻ったかどうかはわかりません。それに、この「別れのまなざし」で重要なのはむしろフリオよりも悲しみの王のほうじゃないかと思います。

という、映画のつくりからは大団円を期待してしまいますが、ちょっと肩透かしを食らったような終わり方です。ただ、それがゆえに31年間長編映画を撮らず、あたかも隠遁していたかのように見えるビクトル・エリセ監督83歳の現在がみえてくる映画でもあります。

記憶は常に混沌としているということです。

果たしてこの映画は単なる追憶ではなく「アイデンティティと記憶」に迫れているのだろうかと、私は思います。