ボーはおそれている

母親畏怖、罪の意識、だと思うが、映画そのものはくどい…

ヘレディタリー 継承」では、金返せぇぇぇぇぇぇぇー!と叫び、「ミッドサマー」では、陳腐なことも陳腐とわかってやればホラーもコメディーになる、なんて茶化しておきながら(いや、真実…)、また見てしまいました(笑)。

ボーはおそれている / 監督:アリ・アスター

母親畏怖、母親嫌悪…

「ミッドサマー」ではシリアスから入って最後はコメディーで終えていました(レビュー参照…)が、この「ボーはおそれている」はコメディーから入り、シリアスで終えるのかと見ていましたら、なんと最後は爆死していました(笑)。

それにしてもアリ・アスター監督の母親畏怖は相当なものですね。これだけ最初から最後まで母親畏怖、母親嫌悪だけで3時間の映画をつくってしまうわけですからボーはアリ・アスター監督自身でしょう。

この映画には物語なんてものはありません。ボー(ホアキン・フェニックス)が母親の誕生日にその元に帰ろうとしますが、様々なトラブル(現実的なものではない…)に巻き込まれて帰れなくなり、そうこうするうちに母親事故死の連絡を受けて、それでもなんとか帰ろうとするものの自分自身の妄想にとらわれてなかなか帰りつけないという話です。

で、帰ってみれば、母親は生きており(かどうかも、もはや問題ではない…)、母親から徹底的に断罪されて爆死してしまいます。

物語に意味はありません。とにかく、ボーが母親の権威に恐れおののく様を3時間見せつけられる映画です。

さすがにファンでも飽きるでしょう…

とにかくくどいです。

4つのパートに分かれています。1つ目は、いわゆる古典的なギャグを絡めたスリラー・コメディーですので、おっ、キャラ変えたのかななんて笑いながら見られます。ボーが自分のアパートメントから母親の元に帰ろうとするもののあれこれあって最後に素っ裸で外に飛び出して車に轢かれます。このパートはかなり笑えます。

その勢いで2つ目を期待してはいけません(笑)。ボーを轢いた夫婦の元での話です。男のほうが外科医ということでボーを自宅で治療したということらしいです。その夫婦は息子を戦争で失くしており、それゆえなのかPTSDを患っているその同僚を住まわせています。また、夫婦には娘がいます。とにかくみなエキセントリックな人物で、このパートの最後では娘との間にごちゃごちゃあり、ボーは逃げ出すも、PTSD男に追われて森の中で木にぶつかって気を失います。

この2つ目、半分くらいの長さにすればいいのなあとは思いますが、それではアリ・アスター監督には不十分なんでしょう。そう思ってみていますと、とんでもありません。次の3つ目、このパート、なくていいんじゃないのとなります(笑)。

3つ目は森の中のコミュニティです。女性(妊婦…)に導かれて演劇コミュニティ(笑)に参加します。「ミッドサマー」でもコミュニティが描かれていましたので、アリ・アスター監督の中に何かがあるのでしょう。このパートでは、これまでフラッシュバック的に挿入されていたボーの過去がコミュニティで演じられる演劇に触発された感じでボーの見る妄想として学芸会のような書割演劇で描かれます。そしてこのパートの最後は2つ目のPTSD男が現れて銃を乱射します。ボーは逃げます。

4つ目はやっと母親の元に戻ります。母親は実は死んでおらず、ボーと母親の対決、と言うよりも一方的な母親によるボーの断罪パートです。

そしてボーの爆死です。とにかく、くどいです。こんなに早く終わって!と思った映画はありません。

罪の意識、エディプスコンプレックスか…

ということで、どうでもいい映画ではありますが、これまで3作見て思うことをちょっとだけ書きますと、この映画では母親への畏怖として現れているアリ・アスター監督の「罪の意識」、どこから来ているのでしょう。

やはりキリスト教なんでしょうか。本人の宗教意識がどうであるかはわかりませんが、映画を見るかぎりではキリスト教的罪悪感を強く感じます。

ほとんど弁明することなく徹底的に母親に断罪し続けられることもそうですし、ボー以外の登場人物は皆ボーを責め続けます。ペントハウスのようなところに閉じ込められている父親もそうですし、そこには男性器のオブジェまであります。「ミッドサマー」にもありましたが性行為が儀式化されています。母親のベッドでセックスしたあの女性、ボーが純愛を貫いた相手なのにあっさり死んでいました。と言うよりも、硬直したまま捨てられていましたので妄想の中のオブジェのような意味合いかも知れません。

エディプスコンプレックスの変形でしょうか。

とにかく、アリ・アスター監督はまだ大人になりきっていないですね(ゴメン…)