マイク・ミルズ、ホアキン・フェニックス、ウッディ・ノーマン
マイク・ミルズ監督はプライベートなところから創作意欲がわく監督のようです。前作の「20センチュリー・ウーマン」では自身の母親、「人生はビギナーズ」では父親、そしてこの「カモン カモン」では自身の子育てをテーマに映画を撮っています。
コミュニケーションは難しい
ラジオジャーナリスト(どんな仕事なんだろう?)のジョニー(ホアキン・フェニックス)が9歳の甥のジェシーを預かることになりコミュニケーションに四苦八苦する物語です。
ジョニーはアメリカの各地をまわり子どもたちへのインタビューをとっています。映画では子どもたちにインタビューするシーンしかありませんので、それをどうラジオ番組に構成しているのかはよくわかりませんが、率直なところニューヨークで暮らしていけるほどの職業として成り立っているのだろうかという感じはします。
ジョニーは、ロサンゼルスで暮らしている妹ヴィヴからジェシーを預かってくれないかと頼まれます。理由は夫のポールが精神的不調で家を出ていってしまい(かどうかはっきりはわからない)、そのサポートのためのようです。映画の主題はジョニーとジェシーのコミュニケーションですので、それ以外のことにはほとんど説明はありません。ただ、ポールの映像も結構使われており、ヴィヴとポールの諍いであったり、ポールが不調になったりする映像にジョニーのモノローグがかぶったりします。
この映画には、誰であれ言葉によるコミュニケーションが取れているシーンはほとんどありません。
映画の現在軸であるジョニーとジェシーのシーンはそもそもコミュニケーションが取れないことがテーマですから当然ですが、その背景に流される音声なしのジョニーとヴィヴの映像は母親のことで言い争っていますし、ヴィヴとポールはポールの不調で会話自体が成り立っているようにはみえません。
なのに、この映画は、ジョニーとジェシーの会話だけではなく、ジョニーのモノローグ的なもの、その上何冊か引用されている本の朗読的なもの、そうした言葉のシャワー が見ている者にとめどなく降り注ぎます。
画も見なくちゃいけない、できるだけ生の言葉のニュアンスを聞き取らなくてはいけない、字幕を読まなくてはいけない、音楽も聞かなくてはいけない…。
無理です(笑)。見ている私がコミュニケーション不能におちいります。まあ、それが現代ということでしょう。
子育ての現実か?
ジョニーはまさしく途方に暮れています。噛み合わない会話、寄り添おうとすれば拒絶し、突き放せばすねたり求めてきたりと、どうしていいのかわかりません。現実をよく知らない私がどうこう言えることではありませんが、きっと子どもとはこういうものなんでしょう。
でも、映画とはいえ、この映画のジョニーにはジェシーに真摯に向き合うだけの時間があります。お金もあります。ニューヨークからロサンゼルスに飛んで何日か四六時中一緒にいて、さすがに仕事もしなくっちゃとジェシーを連れてニューヨークに戻り、ひとり置いておくこともできず仕事に同行させ、あれこれあってホームシックなのかすねたのか、ロサンゼルスに戻すために飛行機を手配するも直前にすねてトイレにこもってしまい航空券もパーとなり、さらに仕事でニューオリンズだったかデトロイトへ飛ぶという流れです。仕事仲間も気持ちよくジェシーの相手をしてくれています。
当然ながら現実はこうはいかないでしょう。
子どもたちへのインタビュー
子どもたちへのインタビューのシーンがかなりあります。子どもたちは俳優ではないようです。特に決められた質問ではなかったようで、自分の住んでいる街のことであったり、将来のことであったり、今の社会に対することであったりと様々でした。ただ、どんな質問への答えなのかはわからず、ひとつひとつの意味合いを感じ取ることもできないくらい次から次へと流れてきますのでなんだかもったいないなあとは思います。
ということで、私には慌ただしさだけが残る映画でした。
「カモン カモン」とにかくこうやってやっていくしかないということなんでしょうか。
ところで、ミランダ・ジュライさんはもう映画は撮らないんでしょうか? 撮ってほしいですね、と思いましたら撮っていました。
「さよなら、私のロンリー」