今年2022年初めの劇場公開時には、イスラエルとパレスチナの若者たちがオーケストラを組むという内容をみて、まあよくある音楽を使った感動ものだろうとパスしていたのですが、ちょっと気になってDVDを見てみましたら、感動ものには違いありませんし、ヨーロッパ視点の映画ではありますが、現実の厳しさを無視していない点ではいい映画でした。
イスラエルとパレスチナ
世界的指揮者のスポルク(ペーター・シモニスチェク)は、慈善活動(と訳されていた)を行っている団体(NGOみたいなものかな…)からイスラエルとパレスチナの若者たちによるオーケストラを結成し、和平交渉が行われる南チロルでコンサートを行ってほしいと依頼されます。
この始まり方からしてもう誰もが、若者たちがぶつかり合いながらも最後はひとつになってコンサートも成功する映画なんだろうと想像します。
ただちょっと違っていました。ラストまでは概ねその通りではありますが、コンサート自体は中止になります。でも演奏はされます。このラストシーンが現実を無視していないという点ではいい映画だという意味ですし、第三者的という意味でヨーロッパ視点だということです。
もうひとつ、こうした映画にしては工夫されているなと思いましたのは、ポイントポイントでかなりカットされているように感じます。カットされていると思われるのはほとんどが結論的な部分で、問題が提起されてどうなるのかとみていますとその結論なり結果なりは省略されて、すぐにその後の展開に移っていきます。当然そのほとんどがいい方へいくわけで、たとえば最初のスポルクが依頼されるシーンでは、最初は無理だと拒んでいるのですが、さらに相手から強く求められてどうするのかと思いましたら、そこでシーンはカットされて、次はもうオーディションに参加しようとする若者たちのシーンになります。また、コンサート中止の理由となるオマルとシーラの逃走シーンでは、一緒にパリへ行こうと懇願するシーラに対してオマルは両親を捨てられないと躊躇するわけですが、その後のやり取りは全てカットされ次は夜二人で合宿を抜け出すシーンになります。
スポルクが手紙をもらい丘の上に建つ家の女性を訪ねるシーンもそうでした。二人が遠くから笑顔で見つめるだけのワンシーンであとはすべてカットされていました。この件は後にスポルクが若者たちに語りかけるシーンで意味がわかります。
こうした手法が功を奏しており、ベタさが薄らいでとても見やすくなっています。結局パレスチナの問題は過去を変えられない以上解決しようのない問題であり、それを解決するためには情を動かすしかなく、それを映画でやればベタになるということです。ですのでこの映画では、問題提起はするもののその解決の道筋を見せずに次の展開、つまり解決したその先を見せているわけです。もちろん現実はそうはいかなく、それがラストシーンということだと思います。
ナチス(ドイツ人)とユダヤ人
スポルクはドイツ人です。両親がナチ党の党員で医師としてユダヤ人の大量虐殺にも関与していたために戦後南米へ逃亡しようとしたものの殺害されているという人物です。いくら子どもの頃のこととはいえ両親がナチスであればおそらく本人も同化されていたんだと思います。
スポルクのこの人物背景が対立する若者たちの説得材料に使われています。
対立する若者たちの前で語ります。被害者ではなく加害者側であることが重要です。スポルクは自ら両親の過去を公表することで非難される道を選んできているわけです。公の場で自分の両親を断罪したとまで言っています。スポルクが会いに行った女性は、両親に連れられて南米に逃げるために立ち寄った南チロルでスポルクを救ってくれた女性ということです。スポルクは、ナチの息子という汚名に苦しんできた過去には、なぜ生き延びてしまったんだとその女性まで憎んだことがあると語ります。そして、ユダヤ人とドイツ人の和解などありえないと言いつつも、少なくとも自らの過去を引き受けることで少しずつは変わるということを示し、対立する若者たちに一歩踏み出せと言います。
和解は可能か?
これは映画ですので、その後若者たちの対立が和らいでいくシーンにはなりますが、長続きはしません。こういうところが現実的ということかと思います。
ただ、この映画はその原因をかなり曖昧にしています。まず狙われるのはスポルクです。スポルクが何者かにペンキを浴びせられます。過激派かもしれないとの字幕になっています。そして同時に、パレスチナ人オマルとユダヤ人シーラが愛し合うことで事件を発生させます。
シーラが自分たちの写真を友人に送ったことから、パレスチナ人と付き合っていることが親に知れ連れ戻されることになります。二人は逃げます。そして、逃げる途中でオマルが車にひかれて死亡します。事故なのか、過激派なのか詳細は不明というニュース映像を流していました。スポルクが狙われたことが伏線にしてあります。
そして、コンサートは中止となります。空港で帰りの便を待つ若者たちがガラスの壁を隔ててパレスチナ人とユダヤ人に分かれています。ひとりがおもむろにヴァイオリンを取り出し演奏し始めます。ラベルのボレロです。ガラスを隔てた反対側のひとりがそれに応えます。そして、ひとり、またひとりと音楽の輪は広がっていきます。
音楽がエンディングをむかえるとともに映画も終わります。
善意だけでは足りなかった
映像で印象的だったのは、合宿の場所がアルプス近くの南チロルの古城のような古い建物で、室内はかなり暗く撮られています。窓から微かに光が差すような映像です。意図された画でしょう。
主要言語がドイツ語というのも、チロルという地域を調べて納得がいきました。スポルクはドイツ人ですのでいいとして、地元の人物と思しき警備員もドイツ語でしたし、映画の主要言語がドイツ語というのはどういうことかと思いましたら、チロル地方というのは、大部分がドイツ系の住民であり第一次世界大戦後にオーストリアとイタリアに分割された地域で、イタリア側でも初等教育はドイツ語ということです。だからナチの残党がこの地方を経由して南米に逃亡したということなんですね。
ドロール・ザハヴィ監督はテルアビブで生まれ育っていますのでユダヤ人ということかと思いますが、20代にはドイツで学ぶなどしてドイツ在住ということです。監督自身の思いがかなり詰まった映画ということかと思います。
その意味では、コンサートの企画責任者とスポスクの最後の会話が印象的です。
スポルクが「善意だけでは足りなかった」と言いますと、その責任者は「結果は出せなかったが、やる価値はあった、今後の教訓になる」と言い残して去ろうとします。スポルクがどこへ行くのか尋ねますと、その責任者は、次のミッションのために南スーダンへ行くと答えます。
複雑な表情を浮かべたスポルクの顔でそのシーンは終わっています。
ヨーロッパにとっては、パレスチナの問題もひとつのミッションに過ぎないということでしょう。もとはと言えばイギリスやフランスが引き起こした問題とも言えるのですが。