第三夫人と髪飾り

静謐なつくりに漂う悲哀、滲み出る情

始まってしばらくは、トラン・アン・ユン監督? と思うくらい雰囲気が似ていました。

ひとことで言えば静謐ということですが、ゆったりと流れる時間、少ない台詞、感情的なシーンを排しているにもかかわらずにじみ出る「情」、そういう映画です。

第三夫人と髪飾り

第三夫人と髪飾り / 監督:アッシュ・メイフェア

アッシュ・メイフェア監督は1984年生まれの35歳、公式サイトには、ベトナム生まれで14歳からは欧米で学んだとあります。IMDbを見ますと、2011年から数多くの短編を撮っているようですが、それよりも目立つのは Sound department 、音楽ではなく音響部門でのキャリアです。

この映画でもかなり凝った音楽の入れ方をしていました。それにエンドロールで、ん? と思ったのが sound post production のクレジット、post production は撮影後の後処理、編集などの作業ですが、それとは別に sound がついているのは見たことがありません。

sound への思い入れが強いということでしょう。この映画でもほぼ全編音楽を含めた音が効果的に使われており、音楽もかなり多様な作りになっていました。ただ、2,3の肝心なところをのぞいて過度に主張することはなく映像(の意図)にもよくマッチしていたと思います。

舞台は19世紀のベトナムです。日本で言えば江戸末期から明治の初めの時代です。ただ時代背景や社会環境などはほとんど描かれません。絹の生産で財を成したらしい富豪の家に三番目の妻として14歳のメイがやってきます。

一夫多妻の時代です。一番目の妻ハには(多分)10代後半の一人息子がいます。二番目の妻スアンには三人の女の子がいます。

一夫多妻というのは男系による子孫繁栄という価値観ですので、男の子を産んでこそ人として認められるということになり、この映画でも男の子を産んで初めて「奥様」と認められると語られていました。

まるで(想像上の)大奥のような世界にも思いますが、そうした映画から連想される女性同士の確執であるとか、妬み、嫉妬が渦巻くようなどろどろした描き方がされた映画ではありません。それとは正反対です。

登場人物が感情的になるシーンは、女性に限っていえばまったくありません。

男性はといえば、そもそも、この映画、登場人物としての男性にほとんど存在感はありません。あるのは社会規範として女性たちに覆いかぶさってくる男性社会のその具象化としての男性です。

メイの夫となるハンその人物自体には強圧的なところはまったくなく、ただ一箇所、使用人を鞭で打つシーンがありますが、そのシーンでさえ無表情を貫いています。そのように演出されているということです。

登場人物そのものに存在感がないといっても、家内のことはすべて家長であるハンの父によって決定されることが示されます。第二夫人のスアンが娘達にアオザイをと求め、それに対し第一夫人のハが息子のために蓄財をと求めるシーン、その息子の結婚がハや本人の意志とは関係なく決定され、またその破談が男たちだけで話し合われること、それら少ないシーンではありますが、男たちの意志が見えない力として女子どもたちに覆いかぶさっていることが示されます。

そうした、(あくまでも)現代の視点からみれば重苦しい抑圧構造のもと、それが当たり前であった当時の女性たちの悲哀が淡々と描かれ、そして、その感情的描写がストイックなまでに押さえられた映画です。

それだけに美しい風景の描写と相まって、一種独特な虚無感が漂います。 

女性たちは確執どころか、第二夫人のスアンにいたってはメイを妹のように可愛がります。

このスアンの人物設定はうまいですね。

第二夫人で女の子しか産めなかったということは、この映画でいえば「奥様」とは認められない、つまり男の子を産むことを求められてきたにもかかわらずその務めが果たせなかったわけですから、存在自体が否定されているに等しく、その人物にその家の跡継ぎとなるであろうハの息子と性的関係をもたせ、その息子に愛していると言わせているのです。さらに、スアンは否定していましたが、息子は、スアンの娘、多分三人目の子なんでしょうが、自分の子どもだと言わせていました。

これはある種復讐とも言える行為なんですが、その同じ人物に、あるいはメイが男の子を産み、自分の立場がさらに悪くなるかもしれないのにもかかわらず、なんの掛け値なしで優しくさせているのです。そして、やや唐突ではありましたが、メイ本人にまで、(スアンを)愛していると言わせています。

第一夫人のハには男の子、それもひとりという設定も絶妙といえば絶妙で、ハという人物に第一夫人としての一定程度の安定感を与え、しかし同時にひとりだけという不安定感をもたせています。

第三夫人であるメイがやってきた後の妊娠は、第一夫人としてのプライドを満足させるものですし、そして流産という結果は、生まれる子どもによって保たれるその地位(ポジション)がいかに虚しいものであるかを感じさせます。

その点ではメイも同様です。メイは(映画として)すぐに妊娠します。

この映画はメイの妊娠が軸になってはいますが、そのメイを描くというよりもメイが見ている世界を描いているという面が強く、何も知らないメイが周りの女たちに教わり、自分の目で見て学び、自分に求められていることが男の子を産むことだと知っていくようなつくりになっています。

メイは、男の子を授けてと天に祈ります。

これもこの映画の特徴で、主要人物に善悪の価値観が結びつかないようにしようとの意図かと思いますが、ハが流産した際には、メイに自分が男の子を欲しいと祈ったからだとスアン相手に告白させています。

そしてメイは女の子を出産します。

その後しばらく描かれる子育てにメイが何を思っているのかは映画からは読み取れませんでしたが、それはラストシーンであきらかになります。

緑がおおう森の中、子どもを抱くメイ、泣き止まぬ子どもに乳を与えようとしますが泣きやみません。おもむろに黄色い花に手を伸ばすメイのアップ、メイはその花には毒があると聞かされているのです。

映画はこのシーンで終わっていますのでメイが何をしようとしたのか、それによりアッシュ・メイフェア監督が何を示そうとしたのかはわかりません。

ただ、そのシーンの前に映し出されるハの息子の第一夫人となる幼い少女の縊死による自殺カットとあわせて考えれば、「死」をもってしか自らの意志を示す方法を持たない女たちの悲哀を浮かび上がらせようとしたことは間違いないでしょう。

それを現代においてどう位置づけるかは見た者に任せられているということだと思います。

メイを演じたグエン・フオン・チャー・ミーさん、撮影当時13歳だったとあります。年齢的には子役といってもいいくらいですが、引用の画像のような眼力もありますし、幼さの中にも力強い意志も感じさせます。完璧なるキャスティングですね。

ハを演じたトラン・ヌー・イエン・ケーさんはトラン・アン・ユン監督の妻で、公式サイトによりますと美術などでも映画製作に携わっているとあり、「エタニティ 永遠の花たちへ」ではナレーションで出演していたようです。