恋人はアンバー

本当の自分を抑え込まなくてはいけない辛さ

1995年、アイルランドの田舎町ではまだまだ性的マイノリティーへの差別意識が渦巻いていたという映画です。さらにその差別によって追い詰められる側がティーンエイジャーですので見ていてつらいものがあります。

監督、脚本は「CURED キュアード」のデビッド・フレイン監督です。

恋人はアンバー / 監督:デイヴィッド・フレイン

1995年のエディとアンバー

アイルランドでは1993年まで同性愛は犯罪行為とされていたそうです。それからわずか2年の1995年、そう簡単に社会からの偏見がなくなるはずもなく、映画ではコメディとしてその偏見が誇張されていますので、性的指向が異性ではなく同性に向かうエディとアンバーにとってみれば毎日が地獄のような日々という話です。

ところで、現在のアイルランドは同性の結婚においては先進国です。2015年に同性婚を問う国民投票が行われ、有権者の62%の賛成により、憲法に「性別を区別せずに、法律に基づいて合法的に結婚契約を結ぶことができる」(ウィキペディア)との条文が書き加えられています。

今年12月に再度首相に就任予定のレオ・バラッカーさん(現在副首相)はその2015年にゲイであることを公表し、

(ゲイであることは)私を定義するものではない。インド人ハーフ(インド系なので…)の政治家でもなく、医者の政治家でもなく、ゲイの政治家でもない。それは私が誰であるかの一部であり、私を定義するものではない。性格の一部だと思う

ウィキペディア

と述べたそうです。

で、映画です。エディ(フィン・オシェイ)とアンバー(ローラ・ペティクルー)は17、8歳くらい、日本で言えば高校の最終学年の設定だと思います。

エディは初っ端から同級生たちにホモ(英語の差別語がなんだったかは?)だとからかわれています。エディは見ていて可愛そうになるくらい必死に否定します。学校内のシーンでは、男子生徒の数人が誰かれとやるだのやっただのといった話をするシーンや女子生徒の2、3人がタバコを吸ったりといわゆるワルを演じているようなシーンばかりで、正直うんざりします。コメディではあるのですが笑えるわけでもなく、エディを追い詰めるためとはいえ、やり過ぎ感は強いです。

一方のアンバーの方もレズだと揶揄されたりするシーンがありますが、アンバーは無視しています。アンバーは、実際にはそんなシーンはなかったと思いますが逆に中指を立てるようなキャラ設定です。

エディの場合

エディは自分の性的指向が男性に向かうことを自覚しています。ですので、エディの苦しみはその思いを持て余しているという内的葛藤というよりも、その思いを隠さなくてはいけないという自己抑圧によるもののほうが強いです。

エディが自己抑圧しなくちゃいけないと思いこむわけには、学校内(つまり社会)の偏見もありますが、さらに強いのは父親のマッチョイズムです。父親は軍人であり、エディにも「男らしさ」を求め、軍人になることを望んでいます。しかし、エディは体力がありません。懸垂が1回出来るかどうかですが、父親は自分の息子だからと期待を寄せ続けています。

父親はかなり類型的な人物に描かれています。いわゆる筋肉〇〇という言葉が浮かんでくるように描かれています。すでに書きましたように、学校内の会話の性的表現や生徒たちの人物造形にしてもそうですが、こういうセンスって古臭く感じます。コメディにしても笑いが取れるようなものではありませんし、仮に笑うとしたらそこには侮蔑が含まれるわけですから、笑ったところで気持ちのいいものではありません。

そもそもなぜ1993年の物語を今撮るのかもわかりません。自分の国の過去はこんなんだったということでもなさそうですし、社会における性的マイノリティの問題なら現代の話にすればいいわけです。

と、話がそれてしまいました(笑)。あまりいい印象を持っていないということです。

アンバーの場合

エディは父親が望むように生き、社会に溶け込もうとするのですが、アンバーは違います。自らの生きたいように生きようとします。卒業後(学制はよくわからない…)ロンドンへ出る計画を立てています。そのためにトレーラーハウスを同級生たちのホテル代わりに貸してお金をためています。もちろん、自分が異性には興味がなくレズビアンであることを自覚しています。特に隠そうとしているわけでもなく、異性愛が当然のような価値観を鬱陶しく感じているということです。

アンバーの父親は自殺しています。これが映画的に何を示しているのかよくわかりません。特に自殺の理由(何も語られないのでわからない…)に映画的な意味があるわけでもありませんし、そのことがアンバーの行動に影響するわけでもありません。

こういう無駄な設定が多いシナリオです。

そして、エディとアンバー

アンバーはエディがゲイであることを感じています。アンバーは同級生から特別視されることが鬱陶しく感じ、エディに恋人同士のふりをすることを提案します。エディは一旦は拒否しますが、後に受け入れます。そして、しばらくは穏やかな時間が流れます。

このパートをもっと丁寧に描くとまた違った映画になっていたんですが、とにかく映画の意図がエディを苦しめることに絞られていますので、全体として焦点が絞りきれていない映画です。

二人でダブリンに遊びに出かけます。実際には二度行くのですが、簡潔に書きますと、一度目のときにアンバーはドイツ人の女性に出会い、互いに何かを感じたようです。再度エディを誘ってダブリンのクラブに行きます。アンバーはドイツ人の女性との関係を深めます。エディは薬でキメていることもあり解放されたのでしょう、男性と濃厚なキスを交わします。エディの目に同級生(だと思うけど…)の一人が目に入ります。キスしていた男を突き飛ばします。

この同級生と思しき男性の存在がいまいちよくわかりません。この男性もゲイということなんだろうと思いますし、このシーンの前にもそれらしきワンシーンが挿入されており、また、この後のシーンではこの男性がエディにうまく隠して生きていけばいいといったことを言うシーンもあります。でも、あまり映画的に生きていません。

エディは飛び立てるのか?

アンバーはドイツ人の女性との関係を経て、これが自分の本当の姿だと確認したんでしょう、自分はレズビアンであることを公表します。

エディはますます苦しい立場におかれます。このあたりになりますと、そんなにエディを苦しめなくてもいいんじゃないのという気になってきます。現代ならさすがにこうはならないだろうと思い、ますますなぜ今1995年をやるのかわからなくなります(笑)。

とにかく、エディの苦しみは深くなるばかりです。父親は軍隊への入隊を望んでおり、エディもそれを受け入れ審査(試験?)を受けています。そして合格します。

入隊の日、アンバーがエディのもとに駆けつけ、これで旅立ちなさいとそれまで貯めてきたお金をエディに渡します。エディは逡巡しますが、お金を受け取り、旅立っていきます。

あまりいい映画ではありませんが、本当の自分を抑え込むことの苦しさだけは伝わってくる映画です。