あまりに直接的なタイトルですので逆に目を引いた映画、母親は石田えりさん、娘は井上真央さんです。監督は「前作『人の望みの喜びよ』(15)がベルリン国際映画祭ジェネレーション部門でスペシャルメンションを受賞し、人間ドラマを描く手腕が高く評価された杉田真一(公式サイト)」さん、これも見ようと思った理由のひとつです。
物語が足りない
ワンテーマです。母と娘の溝です。母は娘を自分の分身と思っています。娘はそんな母に距離を置いています。でも、やっぱり「わたしのお母さん」という映画です。
母寛子(石田えり)は早くに夫を亡くし、3人の子どもを育ててきています。長女夕子(井上真央)は結婚して離れて暮らしています。長男勝(笠松将)が結婚して母親と同居しています。次女晶子(阿部純子)も家を出ています。
二間程度しかない団地暮らしの夕子のもとに寛子が同居することになります。実家で寛子が原因のボヤ騒ぎがあり長男夫婦に追い出されたからです。夕子と同居させるための理由付けにしか見えませんのでかなり違和感があります。
寛子は、よく言えば明るくて誰とも親しくなる性格、悪くいえば人の気持ちを考えない無神経タイプです。と言うよりも、一面的にしか描かれていませんのでそれ以上のことはわかりません。
夕子にはほとんど台詞がありません。最初から最後まで母親と距離を作ったままのシーンしかありません。ですので夕子の方も一面的にしか描かれていないということです。
この状態が映画100分の8割方続き、そして寛子が突然亡くなります。突然死と言っていました。んー、簡単に人を殺しますね。
とにかく葬式があり、その後の会食です。突然死なのにみんなあんなに楽しそうでいいんですかね? 夕子も普通の笑顔でした。会食の途中で、夕子は母親の部屋に行き、母親の口紅を使い、鏡に映る自分をじっと見つめ、そして泣きます。
当然会食と泣くシーンは別撮りでしょう。夕子の意識がつながっていません。それに、夕子を母親の部屋に行かせるために誰からだかわからない、映画的に意味のない電話をさせるというのはさすがにダメでしょう。同居の理由にしているボヤ騒ぎも同じことです。
このテーマなら短編で描けるでしょう。30分を100分に引き伸ばしたような映画です。
俳優の間合いとカットの長さ
それぞれのカットはとても長いです。俳優をじっくり撮ろうとしていることはわかります。そのこと自体はとてもいいことだと思います。
問題は、俳優がその長さに見合うだけの、この映画言えば20年の人生を体現しているか、そしてその役のバックボーンを持っているかということです。シナリオにそれが落とし込められているか、あるいは直接的な対話でそれを伝えられているかということです。
井上真央さんの夕子にはそれが感じられません。俳優の間合いとカットの長さがあっていないということです。俳優ではなくシナリオと監督のせいでしょう。
説明的なカットやシーンが多いです。ていねいに描いているつもりだとは思いますが、無駄なカットやシーンが多すぎます。何が無駄かと言いますと、そのカットやシーンが夕子の人物像を厚くすることにつながっていないからです。
シナリオ段階でもっと、もっと人物像を深めることです。