マリア 怒りの娘

ニカラグア映画、貧困、児童労働への怒りというよりも母娘の物語…

ニカラグアの映画です。監督もニカラグア出身のローラ・バウマイスター監督、1983年生れとありますので40歳くらいの方です。10年ほど前から数本の短編を撮っておりこの映画が初の長編です。2022年9月のトロント国際映画祭でプレミア上映されています。

マリア 怒りの娘 / 監督:ローラ・バウマイスター

ゴミ山、ラ・チュレカ…

中米を舞台にした映画には記憶に残っているものがいくつかあります。

グアテマラの「火の山のマリア」、隣の国ホンジュラスを舞台にした「闇の列車、光の旅」、中米と接した南米の国コロンビアの「そして、ひと粒のひかり」、どれも貧困ゆえの問題をテーマにした映画です。

この「マリア 怒りの娘」も貧困ゆえに起きる問題を描いてはいますが、バウマイスター監督が焦点を当てたいと考えているのは母娘の関係じゃないかと思います。

冒頭、子どもたちがゴミ山からめぼしいものはないかと棒でつつきながら再生可能なゴミを拾い集めるシーンから始まります。マリアもそのひとりです。

このゴミ山はラ・チュレカ(La Chureca)というそうです。

Chureca1
Gonzalo Bauluz, CC BY 3.0, via Wikimedia Commons

ウィキペディアには、約400~440世帯(115〜180世帯の記載もある…)、約1000人(約3000人の記載もある…)が暮らしており、その半数が18歳未満の子どもたちとあります。家庭ごみだけではなく産業廃棄物もあるらしく、それらからリサイクル可能なものを探してきれいにして販売することで生活の糧としているとのことです。

映画の中でマリアが母親の知り合いに預けられるシーンがあり、最初はどういうところかよくわかりませんでしたが、集められた再生可能なゴミをきれいにする施設(劣悪環境な小屋…)で、子どもたちに違法な児童労働をさせている施設ということです。この施設、後半には警察に摘発されるシーンがあります。ただ、映画にはあまり批判的な視点は感じられなかったです。現実を知るものの葛藤があるのかもしれません。

実際、ラ・チュレカはゴミ収集で暮らす人たちのコミュニティとなっているらしく、映画の中で、ゴミ収集が民営化されることになったために抗議活動が起きているとあるのは、民営化(何が民営化かはよくわからない…)によって生活の糧が失われるということかと思います。

母と娘の物語…

マリア(アラ・アレハンドラ・メダル)と母親リリベス(バージニア・セビリア)はラ・チュレカの近くの小屋(あばら家…)で暮らしています。上に書いたコミュニティの一員ということかと思いますが、映画の中ではリリベスがそれに関わるようなシーンはなく、問題の発端は子犬です。

リリベスはギャングから犬を預かって(いるのかどうかもはっきりしない…)育てる約束をして前金を受け取っています。マリアはその犬たちをとても可愛がっています。あまり食べさせるものがないのかもしれません。ゴミ山から拾ってきたものを子犬たちに食べさせます。子犬たちが死にます。

リリベスが猛烈に怒ります。こういうリリベスとマリアのシーンがこの映画の肝なんだと思います。この怒りのシーンの前夜にはふたりがじゃれ合うようなシーンがあります。マリアにとって、母リリベスがかけがえのない存在であることは当然ですが、母リリベスにとっても娘マリアはいなくてはいけない存在ということです。

ギャングが犬を引き取りに来ます。リリベスはなんとか取り繕うとしますが通用するわけもなくレイプされます。マリアはたまらず敷かれた布に潜り込んでいます。さらりと描かれているがゆえにかえって見ていてつらいです。

リリベスはマリアを連れて知り合いを訪ねます。フェンスで囲われ警備員までいるところです。リリベスはマリアを預けて町へ行くと言って去っていきます。この後、リリベスは登場しません。お金を工面しにいったということだと思いますが言わずもがなです。

マリアが預けられたところは、子どもたちがゴミ山から拾い集めてきたものがきれいにされて再生されるところ、言ってみればリサイクルセンターのようなところではありますが、問題はそこで作業をしているのが子どもたちという違法な児童労働の場だということです。

運営している(経営している?…)夫婦者らしき男女が子どもたちに対してフレンドリーなのがかえって気になります。バウマイスター監督の意図はわかりませんが、これも現実を知るものの葛藤と考えるしかありません。

マリアは反抗的です。これも何を見せようとしているのかはっきりしませんが、母親リリベスが自分を捨てていったことのいらだちと考えるのが妥当かと思います。

この映画、こうした貧困であるとか、子どもたちが劣悪な環境に置かれていることに怒っているというよりも、母リリベスを失ったマリアのいらだちを描こうとしているようで、その表現かと思いますが、マリアが夢を見るシーンが何度か挿入されており、そのシーンではリリベスが犬か猫のような振る舞う存在になっています。そして、最後にはそのリリベスとマリアがまるで犬か猫のようにじゃれ合うシーンで終わっています。

その点ではこの記事の最初に上げた映画とはちょっと違っている印象です。バウマイスター監督へのインタビューによれば、これまでの短編でも母と娘の関係にこだわってきたと語っているものがあり、この初長編でもその延長線上にあるということかもしれません。

意図をつかみ兼ねるイメージシーン…

その後、映画はマリアがそこで働かされている男の子と親しく話すようになるシーンが続き、そして、その施設が警察の捜索を受けたことを機にマリアが母親を探しに町に向かい、しかし母親とは会うこともなく、上に書いた動物化したふたりがじゃれ合うようなイメージシーンで終わっています。

ということで、映画としてはやや曖昧なまま終わっていますので、もう少し明確な意思表示をしたほうがいいとは思います。

現在のところ、ニカラグアで映画を撮っていく環境が整っているわけではなく、メキシコやヨーロッパを活動拠点としていくしかないとは思いますが、バウマイスター監督にはこれからもニカラグアの現在の問題をとらえて映画を撮っていってほしいと思います。