プリシラよりもプリシラの見たエルヴィスを描きたかったようだ…
ソフィア・コッポラ監督の映画は過去に4本見ていますが、その度毎に「理解できない」とか、「私には無理」とか、「良さがわからない」とか、勝手なことを書きながらもまた見てしまいました(笑)。
あいかわらず淡白なソフィア・コッポラ監督…
ひとりの女性が自己に目覚めて自立していく姿が描かれるのかと思いましたら、男が自分の方を見てくれなくなったからもう我慢できないといって去っていくだけでした。
そのつもりはないのでしょうが、映画的にはそうとしか見えません。
14歳でエルヴィス・プレスリーと出会い、22歳で結婚し、27歳で破綻、28歳で離婚するまでが描かれます。人が最も成長し変わっていく時期なんですから、もっと激しい心の動きもあるんじゃないですかね。
描かれているのは、一貫して男に従順な女の姿です。変化するのは映画で言えばラスト30分くらい、実生活でいえば結婚生活が破綻して離婚にいたる1年くらいで、それにしたってヘアスタイルや服装など見た目が変わるだけで、シーンとして精神的な変化を描くようなものもありません。
まあ淡白といえば淡白、もうわかっているのですが、こういう映画を撮る監督ということです。
ソフィア・コッポラ監督には見えているものが私には見えないというしかありません。
プリシラの見たエルヴィス・プレスリー…
結局、プリシラを描いているというよりも、プリシラの見たエルヴィスを描いている映画と言ったほうがいいです。
実際、映画の中のプリシラは常にエルヴィスを見ているだけですし、エルヴィスのことしか考えていません。14歳のときに西ドイツで出会って恋をし、エルヴィスがアメリカに戻れば電話を待ち続け、アメリカに来いと言われればそれに従い、まるで愛玩動物か何かのようにエルヴィス好みのファッションを受け入れ、エルヴィスがツアーや撮影で家をあければ再び電話を待つ日々で、新聞や雑誌を賑わすゴシップ記事に嫉妬し、やっと会えたと愛を求めれば、それは今じゃない、そのときは俺が決めると突き放され、突然差し出された結婚指輪にはやっとといった程度で大した感慨もなく、すぐに妊娠、そして出産、しかし、やはり家をあけることの多いエイルヴィスの色恋沙汰に悶々とする日々が続きます。
突然空手を習うシーンが入ります。ここらあたりからプリシラの気持ちがエルヴィスから離れたということなんでしょう。
プリシラ・プレスリーのウィキペディアには「1973年の離婚直後、空手講師のマイク・ストーンと同棲した」とあり、エルヴィス・プレスリーのウィキペディアには「プリシラは不倫し、結婚生活は破綻してしまう」とありますので、あの空手のシーンがそういう意味なんでしょう。
それにしてもプリシラは不倫と言われ、エルヴィスの方は不問って、ウィキペディアもそれじゃダメでしょう。
とにかく、ということでプリシラはエルヴィスのもとを去っていきます。映画はそれだけです。
ソフィア・コッポラ監督がみてきた男たち…
やはり、ソフィア・コッポラ監督はプリシラではなくエルヴィス・プレスリーを見ていますね。プリシラがどういう人物かは見えてきませんがエルヴィスの方はよくわかります。
エルヴィスがプリシラと出会ったときは24歳です。14歳の子どもを自分の部屋に入れ、同じ国の人と話したい、自分はホームシックだと弱みを見せて甘えます。エルヴィスはすでにスターです。
実際にも敬虔なプロテスタントだったようですが、ベッドにふたりで横たわってもキスまでよと言います。映画としてもそれ以上のラブシーンは撮らない方針だったようで、結婚後のシーンでは、ふたりが寝室に閉じこもりドアの前に食事が置かれるシーンが繰り返されていました。
映画の中のエルヴィスはマチスモでエゴイストです。プリシラに黒髪にしろと言い、プリシラの好みを否定して自分の好みのものを着させます。シーンとしてはありませんが、ツアー先から電話してプリシラがいなければ怒り出しそうです。新曲でしょうか、この曲はどうだ?と聞き、プリシラがキャッチーじゃないと答えれば物を投げつけます。
そして、クスリ、クスリ、クスリです。
実際のプレスリーというよりも、ソフィア・コッポラ監督が子どもの頃から見てきた業界の男たちの姿かもしれません。