30年をかけた偉大なる駄作
なんともとりとめのない映画です。
ひとことで言えば批評性に欠けているということなんですが、映画であれ小説であれ、古典を題材にするということは、その古典を現代的意味においてどう読むかということが求められると思います。特に『ドン・キホーテ』は、時代により、人により、表現形態により、様々に取り上げられてきた古典ですので批評性という視点を避けることはできないものです。
この「テリー・ギリアムのドン・キホーテ」で一番の問題は、ドン・キホーテとなる村の靴職人ハビエル(ジョナサン・プライス)と、そしてラストには自らドン・キホーテとなることを引き受ける映画監督のトビー(アダム・ドライバー)が、いったい何を見ているのか、そして何を守るべきものと考え、倒すべき相手である風車が何にみえているのかがまったくわからないことです。
そしてもうひとつ大きな問題があります。映画のつくりはコメディなんですが、なんと笑えるところは俳優がおどけるシーンだけという、ほとんどバラエティのレベルのコメディなんです。アダム・ドライバーやジョナサン・プライスのお茶目なところが見られるという点ではそれはそれでいいのかも知れませんが、やはり映画の可笑しみというのは、見るものを笑わせながらも、その後、ん? と何かに思い当たるようなものじゃないととてもいい映画とは言えません。
制作過程の紆余曲折が何らかの影響を与えているのかもしれません。 あまり詳しくは知りませんでしたので、ウィキペディアなどを読んでみましたら、構想から30年(公式サイト)、最初の制作開始が1998年ということで、
この作品は映画史最大の開発地獄(Development hell)に陥った作品のひとつとして悪名高く、ギリアムは19年間の間に9回映画化に挑戦してその都度失敗した。この映画の日本語版公式サイトでは「映画史に刻まれる呪われた企画」と銘打たれている。
ということらしく、とにかく作り上げることが目的化してしまった結果ということも考えられます。
あらすじはウィキペディアに詳しいのですが、正直なところ詳しいストーリーにあまり意味はありませんし、ほとんど筋道だってはいません。
大筋はこんな感じです。
映画監督のトビーは、ドン・キホーテを題材にしたCM撮影のためにスペインに来ています。ボスの妻ジャッキ(オルガ・キュリレンコ)と関係を持っています。
トビーは、学生時代に「ドン・キホーテを殺した男」という作品で賞をとっています。その映画でドン・キホーテを演じた靴職人ハビエルは、すっかり自分をドン・キホーテだと思い込んでしまい今や狂人として扱われています。思い姫ドゥルシネーアを演じた村の娘アンジェリカは俳優を目指して町に出て今はウォッカ王の娼婦(字幕より)となっています。
トビーはジャッキとの関係のドタバタから警官誤射事件に巻き込まれ、ハビエルと旅をすることになります。ハビエルはトビーをサンチョ・パンサと思い込んでいます。
途中、アンジェリカに出会います。当時ふたりは関係があったようでもあります。
ウォッカ王の城のようなところに全員が揃います。ボスはウォッカ王からの出資(CM契約?)を望んでいます。トビーはアンジェリカに思いを寄せています。
で、クライマックス(?)、なんだかよくわからないうちに、ドタバタが続き、ハビエルはトビーにドン・キホーテの役回りを受け渡すようにして亡くなります。
トビーはドン・キホーテとなり、アンジェリカをサンチョ・パンサとして旅をすることになります。
という映画です。
(原作の)ドン・キホーテが騎士道を守るべきものと考えたのか、あるいは否定的に考えたのか、そのどちらであるにしても、ドン・キホーテの行動には騎士道という核があります。しかし、この映画のハビエルにしてもトビーにしても行動の核がまったく見えません。
トビーの学生時代の映画が何年前のものかはわかりませんが、それ以来ずっとハビエルがドン・キホーテでいようとした理由がわかりません。ハビエルは狂っているわけではありませんので自らの意志としてドン・キホーテを演じているわけです。
唯一考えられるのは、自分じゃない誰かを演じていなければこの世界ではやっていけないといった厭世的な意識ですが、そこまで読むのは深読みすぎるでしょう。
アンジェリカは閉ざされた世界からの脱出を、あまりにもベタではあるにしても俳優になることにかけたのかもしれません。そうだとしても、その挫折の結果が(社会的に)成功者である男の支配下に入ることというのはあまりにも想像力がなさすぎます。
そしてラスト、トビーはハビエルの何を引き継ぎ、なぜ自らドン・キホーテになることを引き受けたのでしょう?
結局、この映画は曖昧模糊としたこの時代そのものとしかいいようのない、映画としては偉大なる駄作としかいいようのない結果に終わっています。