デューンは呪われている
「デューン」は呪われていますね。
1970年代に企画されたホドロフスキー案は10時間の大作となりプロデューサーがびびって頓挫、そのあたりの経緯は「ホドロフスキーのDUNE」に詳しいのですが、その後、1984年にデイヴィッド・リンチ監督が映画化するも、本人が失敗作と認める出来で、逆にそれがリンチ監督ファンの間ではカルト的な人気が出た(かな?)という皮肉、そして、このドゥニ・ヴィルヌーヴ監督版、二部作の一作目という位置付けらしいのですが、リンチ監督版と同じくらいの失敗作です。二作目はないと思います。
「デューン」は、テレビドラマとしても制作されているようですので、むしろこうした単発の劇場向きではなくシリーズ化向きの物語なんだと思います。
説明シーンと(最新?)ビジュアルシーンの繰り返し
登場人物たちが主に室内で交わす台詞で物語を説明し、最新の映像処理(かどうかは知らない)で映画的迫力を出すという、その繰り返しの映画です。
であるのに、映画として物語を語れていません。リンチ版と同じような過ちを繰り返しています。全体を説明しようとしても説明しきれず断片的になってしまっています。特に後半はなんとかまとめようとしたのか、唐突であったり、なぜ今これ?状態になっています。
それに、映画は基本、説明すればするほど見ていても興味を持てなくなります。優れた映画は説明などなくても感じるものがありさえすればわかります。わからなくても感じるものがありさえすれば自分自身の中で再構築して理解することが出来ます。
映画のつくり自体もメリハリがなく繰り返しで飽きます。
「ブレードランナー2049」と似たりよったりの出来です。ですので、「ブレードランナー2049」をよかったと思えたなら、この映画も楽しめるかもしれません。
人物に奥行きがない
原作を読んでおらず、物語も映画やネット上の記事で知っているだけですので、原作のトーンがどういったものかはわかりませんが、こうした壮大な中世風の権力闘争物語には何か哲学的な、あるいは宗教的なバックボーンが必要です。
「スターウォーズ」であれば、フォースという(よくわかんない)概念が登場し、当初はかなり東洋哲学を感じさせる内容になっています。
原作の「デューン」にはおそらく「砂漠の民」的イスラム世界へのよくわからないけれども何かがあるんだろうと思います。それが生きていないです。
ポール(ティモシー・シャラメ)とジェシカ(レベッカ・ファーガソン)は砂漠の民フレーメンとともに世界の救世主になっていくんだろうと思いますが、人物がそうした奥行きのあるものとして造形されていません。
これは俳優のせいじゃないです。シナリオや監督のせいでしょう。
せっかくのなんとか術とかいうコミュニケーション手段や人をコントロールするすべを習得しているのに映画の中で生きていません。
あれこれ書くべきことは多いのですが、ラスト近くのポールと砂漠の民の格闘シーンなどは本当に意味不明です。まったく精神性がありません(笑)。
ポールにもっと精神性をもたせて、ポールを軸に描けばいいのにと思います。
新鮮味のないビジュアルと音でのごまかし
「ブレードランナー2049」でも書いていますが、あんな映像、最初はすごいなあと思っても、幾度も幾度も見せられれば飽きます。
それを音楽、と言っていかかどうかの使い方だったのですが、とにかく音楽で迫力を出そうとしても、もう驚きません(笑)。
SFに発想の転換を
最近のSFがつまらないのは(私だけです(笑))映像処理に頼りすぎるからじゃないでしょうかね。
まったく違った視点からSFを見直すプロデューサーか、監督か、誰か出てきてほしいものです。
といいますか、一度まったく畑違いの監督にオファーしてみればいいのにと思います。