プレーボーイと盲目の女性の恋、だけの映画なのか?
公式サイトに「イタリアの名匠シルヴィオ・ソルディーニ監督の最新作」とありますが、まったく知らない監督で初めて見ました。 映画.comでシルヴィオ・ソルディーニ監督を見てみますと、結構公開されています。タイトルを見てもまったく記憶になく、劇場公開ではなくイタリア映画祭での上映なんでしょうか。
大人の恋愛ドラマ、いや、恋愛に大人も子どももありませんので、ごく普通に恋愛ドラマです。ただ、女性の設定を視覚障害者にしていますので、自ずとそこに映画の主題があるということになります。
その点については、公式サイトに「<みること><みえること>の意味を問う野心作」などという表現もあり、確かに映画の宣伝としては、対象とするほとんどは健常者でしょうからそこを強調することになるのだとは思いますが、映画はもっと自然体です。ごく普通に恋愛ドラマです。
男はテオ(アドリアーノ・ジャンニーニ)、40歳代の印象、広告代理店でディレクターとして働いています。結婚(同居)を前提にした恋人グレタがいますが、他にも性的関係を持っている女性がいるようです。映画の初っ端がそんなシーンだったと思います。
女はエマ(バレリア・ゴリノ)、40歳代か50歳代、オステオパシーの施術者、(多分)全盲の視覚障害があり、離婚経験があります。
このふたりがDID(ダイアログ・イン・ザ・ダーク)で出会い、互いに離れがたいと感じるまでが描かれています。
DIDというのは、それに似たような体験イベント(的なもの)をテレビで見たことはありますが、言葉も含めて初めて知りました。
ダイアログ・イン・ザ・ダークとは、照度ゼロの暗闇空間で、聴覚や触覚など視覚以外の感覚を使って日常生活のさまざまなシーンを体験するエンターテイメント。「DID」と略称されている。
参加者は数人のグループとなり、事前に白杖を渡され、完全に光を遮断した照度ゼロの暗闇空間を探検。視覚以外の感覚を研ぎ澄まし様々なシーンを体験する。暗闇内では「アテンド」と呼ばれる視覚障害者のスタッフが参加者を案内する。
映画はテオがDID体験をする暗闇から始まります。暗闇に声…。
おそらく、ここでテオがエマの声をセクシーだと言っていたのだと思います。おそらくというのは、鑑賞時、会場も暗くなり、予告も終わり、配給や制作会社のロゴがいくつか入り、さて本編だと思った矢先、遅れてきた客が私の目の前で自分の席に誰かが座っているらしく、ちょっとばかりごちゃごちゃして字幕を読み損ねてしまったからです。
こういうのって、時々あるんですよね。映画って、導入部分って結構重要で、こういうことで気がそがれてしまいますと、映画の評価まで変わってしまうという、まあそこまではないにしても、できるだけ余裕を持って席についてほしいものです。
で、話を映画に戻しますと、テオは、暗闇の中で聞くエマの声を「ハスキーでセクシー」だと感じ、それはテオにとっては、視覚で感じる、たとえば髪が長いからセクシーだとか、顔であるとか、体型であるとかと同じ感覚で、それがいいことかどうかはここでは置いておいて、エマを魅力的に感じたということです。
もちろん、後に互いに求めあう時に、エマが、表現は正確ではありませんが、「目が見えない女とやってみたい?」と言うように、エマに対するテオの興味が視覚障害者であることと無関係とはいえません。ただ映画は、人が人を好きになるのは相手が自分にないものを持っていたからということと同じような感覚で描いているようにみえます。
そして後日、テオはグレタのためにブラウスを買おうとショッピング中に、そのハスキーでセクシーな声を聞き、声をかけ、オステオパシーの施術を受ける約束を取り付けます。
冒頭の暗闇のシーンの台詞(聞き逃していますが(笑))がきいてきます。
この映画、こうした細かいところにかなり気が使われているように感じます。視覚障害者の日常生活がどういうものかはまったく知りませんが、公式サイトに「盲目の人々が考案したアイデアやシーン、助言が取り入れられ、リアリティを追求している」とあることにはなるほどと思えます。
一度施術を受けた後だったか前だったかは忘れてしまいましたが、テオは、同僚に、エマを落とせたら(字幕がそうなっていた)三ッ星レストランでの食事をおごれと賭けをします。これ、あえて書いておきますが、別にエマだからということではなく、よくもわるくも(イタリアの)男たちの一般的な会話と考えるべき程度のやり取りだと思います。
何を言いたいかといいますと、この映画、エマに視覚障害がある設定であるからこそ映画になっていることは間違いありませんが、そのことをことさら前面に出すことは避けつつ、視覚障害者の日常を丁寧に描こうとしているように感じるということです。
そのためにふたりの人物を登場させています。
ひとりは同年代の友人で強度の弱視であるパティ。もともとの同居人であったのか、訳あって同居するようになったのかよくわかりませんでしたが、テオが初めてエマを食事に誘った際、道に迷ったパティをテオが迎えに行くことになります。テオが言われた場所に行ってみれば、パティは街の若者と話し込んでいます。正直なところ、そのニュアンスがいまいち曖昧なシーンではあったのですが、それでも、パティのキャラクターをワンシーンで印象づけ、なおかつ視覚障害が人の行動を制約するものではないことをうまく現しています。
こうした恋愛ドラマでは、主人公に本音を喋らせるためにパティのようなキャラクターの友人を置くことは結構多いパターンであり、この映画でもそれを踏襲しているんでしょうが、パティにも視覚障害があることで、たとえばワインのラベルを読むために鼻先にくっつけたりするなど、日常生活の表現に拡がりを持たせています。
もうひとりは、エマにフランス語を習いに来ている18歳のナディアです。ナディアも全盲ですが、おそらく割と最近に視力を失ったようで、自暴自棄的に反抗的です。ひとりで外に出たこともなく、白杖を使うことも拒み、母親が何かと世話を焼くことにも反抗的です。
フランス語のレッスンはプライベートレッスンですので、ナディアを外に連れ出したりして、教訓的ではない程度に反抗的なナディアを諭そうとします。
そこにはエマ自身も17歳で視力を失ったという過去があるのですが、映画はそのことをことさら取り上げようとはしません。もう少し何か語られてもいいように思いますが、あるいはこれも情緒的になることを意図的に避けているのかもしれません。
といったように、エマの方は、過去にとらわれることなく、そういえば離婚経験についても何も語られておらず、せいぜい相手がフランス人であったことからフランス語が話せるということくらいで、まさに今を自立して生きる女性ということなんですが、もう一方のテオは、過去に囚われまくっている人物として描かれています。
映画の前半に、父親が亡くなったと妹から電話があります。その時点では何となく訳ありの感じを匂わせながらもしばらくは何も語られず、後半になり、エマとのデートの際に自分語りをします。
テオが幼い頃、父親は出ていってしまった、その後母は再婚し、テオは義父となったその男とはうまくいかず自分が家を出た、母ともうまくいっていない、こんな感じでした。
映画ですので、そもそも何も問題がなければドラマにはならず、じゃあテオにどんな問題をと考えれば、ある種誠実さをもたせたキャラクターとするためにはこんなところかなとは思いますが、ドラマチックになることを避けたんだろうと好意的に考えても、ちょっとどうよと、40歳、50歳の大人がそれを自分の人生の言い訳にする? とは思います(ペコリ)。
そんなあれやこれやがあり、ドラマ的には率直なところややだらだら感のまま時はたち、ある時、エマとテオが買い物をしている時にグレタと鉢合わせます。
グレタは「これがかわいそうな人なのね!」と怒って言い放ちます。テオはグレタに、エマのことをかわいそうな人を助けているだけだとの言い訳でごまかしていたということです。
当然ながら、エマの失望は察するにあまりあるということなんですが、ただ映画は、この後テオはエマのあとを追い、始めて愛し合うという展開だったと思います。ともに求めあってという流れだったと記憶していますので、あれ?この時だったかなあ?とやや不安ですが、この映画、あまりセックスそのものには比重を置いていません。最初の方に書いた、エマの「目が見えない女とやってみたい?」の言葉もかなり早い段階のシーンであり、多分テオが飲み過ぎでという設定だと思いますが、その時はうまくできなかったようでした。
いずれにしても、エマは距離をとるようになり、電話にも出なくなります。テオの方はといえば、エマへの思いとの相互作用なんでしょう、母親に会いにいき、台詞があったかなかったか記憶していませんが、母親に甘えるような抱擁のシーンがありました。
そしてラストシーン、それまでひとりで外に出ることもしなかったナディアが行動します。自ら白杖を取り出し、タクシーに乗り、テオの仕事場に赴き、テオの行動を促します。テオは、クライアントへのプレゼンの最中で席を外せないにも構わずエマのもとに駆けつけます。
DIDの会場です。ファーストシーンと同様の暗闇、テオは静止も聞かず暗闇に飛び込み、エマ!と呼び続けます。そして、抱擁らしき音…キスをしているんでしょう。
ということで、映画としては、テオがエマを自分に欠かせない女性だと気づいたということで終わるのですが、じゃあ、グレタは? というツッコミはこの際置いておくにしても(笑)、テオが将来にわたってそのままの保証はなく、もちろんエマも同じことという意味において、やはりこれは大人の恋愛ドラマかもしれません。
率直なところ、映画としては2時間持ちません。飽きてきます。ただ、原案、脚本、監督であるシルビオ・ソルディーニさんの視覚障害に対する意識はよくわかります。そういう映画かと思います。
そうした主題とは別に、男の甘えと女の強さのようなものが感じられることは果たして意図したことなのか、あるいははからずも出てしまったことなのか、ちょっとばかり気になる映画でした。