やり過ぎたらバランスが壊れてしまった…
濱口竜介監督の「悪は存在しない」、昨年2023年のヴェネチア国際映画祭で審査員グランプリの銀獅子賞を受賞している映画です。
やり過ぎたらバランスが壊れる…
「やり過ぎたらバランスが壊れる」
映画の中で巧(大美賀均)がグランピング開発業者につきつける言葉です。
巧は、自然の中に人為的なものを持ち込むことに対して、自分も含めた人間存在そのものが自然を脅かす存在であることを前提に「やりすぎたらバランスが壊れる」と警告します。
ここで取り上げたいのは、そのことそもそものことではなく、この映画自体が「やり過ぎでバランスが壊れている」と感じることについてです。
まず音楽です。主張しすぎています。
そもそもこの映画制作の発端が石橋英子さんからライブ用の映像制作のオファーを受けたことらしく、公式サイトには「濱口は従来の制作手法でまずはひとつの映画を完成させ、そこから依頼されたライブパフォーマンス用映像を生み出すことを決断」したとあります。どんな映像がライブ用に提供されたのかはわかりませんし、この映画の中の映像がそのまま使われたかどうかもわかりませんが、冒頭の森の中から木々越しの空を撮った映像や森の中を歩く花(西川怜)を木々越しに移動して撮っていくシーンはあるいはこれがその「決断」かなと思わせます。
この2つのシーン、音楽を聞かせるためのシーンじゃないかと思えるほどに音楽が立っています。立っていることが問題ではなく、他のシーンとのバランスがとても悪いです。この2つのシーン、映画的には、他のシーンとのバランスを考えれば音楽はいらないでしょう。
そして、長回しです。他のシーンとのバランスがとても悪いです。映画本編に入った最初のシーン、巧の薪割りのシーンはかなりの長回しです。次のカットが何であったか、水汲みだったか、はっきりとは思い出せませんが、次のシーンに移ったそのときに感じたのは、え? 薪割りの長回しは何を見せたかったの? なぜさっきは長回しでここはカット割りがされているの? と疑問を感じたということです。
巧の薪割りの長回しは丸太をチェンソーで切り、斧で割り、一輪車で軒先に運ぶ一連です。巧は切った丸太すべてを割っていません。丸太のままのものを残したまま、割った一部の薪を一輪車に乗せ、それもわずか数本(じゃないけどそういう印象…)を乗せて運び、乾燥させるために軒下に積んでいます。つまり、作業を映画段取り的に端折っているところをワンショットで撮っているわけです。
あの長回しで何を伝えようとしたのでしょう。
長回しで思い出すのは「ヨーロッパ新世紀」の17分です。移民を雇う工場に対する地元住民の偏見と差別に満ちた抗議集会を固定カメラで捉えたままの17分の長回しで見せていました。すごかったです。伝わってくることが圧倒的でした。あの17分がなければ映画が成り立たないくらい意味のあるものでした。
重要なのは長く回すことじゃなく(当たり前ですが…)、その必然性、そうしなければ伝えられないと感じさせるものを撮っているかどうかです。
余韻を残すつもりのラストシーンが…
バランスの悪さはラストシーンにも言えます。
花が行方知れずになり、巧とグランピング開発業者の高橋(小坂竜士)が探し回り、森を抜けて草原のようなところに出ます。ここでフラッシュバック(的なカット…)が入り、花の視点で鹿狩りの銃で撃たれた鹿のカットがあり、花が鹿に近づこうとします。ここで現在軸に戻り、花が鹿に襲われたことを想像させるように草原に花が倒れているカットになります。突然、巧がスリーパーホールドで高橋の首を締めます。高橋はよだれを垂らして失神します。巧は花に駆け寄り抱きかかえて森の中へと消えていきます。高橋は咳き込みながら意識を取り戻します。
なんとも不可解です。これだけわかりやすい話を最後の最後まで見せてきて、なぜここでこんな不可解なことをするんでしょう(笑)。
鹿狩りの銃声は、湧き水汲みのシーンと高橋の再訪問のシーンに入っており、鹿狩りのシーンもないのにわざわざ説明しているわけですから、これがキーになるよと言っているわけですから、ひょっとして花が誤射されるのかなくらいは予想できます。
でもそれじゃ映画のテーマに結びつかないなあなんて考えていましたら、なんと、高橋の首を締めさせるとはねぇ…(笑)。
巧と高橋の車の中での会話からすれば、高橋へのお仕置きでしょう。
巧がグランピング場予定地は鹿の通り道だと言いますと、それに対して高橋が他を通ればいいと言います。次のカットは巧の顔のアップだったと思います。その時点ではそうは見えませんでしたが、このラストを知れば、ああ、あの巧の顔のアップにはかすかな殺意(とまではいかないけれど…)が表現されていたんだろうと思います。
鹿が花を襲ったことについても、その会話の中で野生の鹿は人を襲わない、もし襲うとすれば手負いのときだと巧は語っています。傷ついた鹿を見た花がなんとかしようとして近づいたという設定なんでしょう。
また、花を抱きかかえて去っていくように見えるのは、ただカメラの視点からの印象だけで、おそらく車か家に向かっていったということだと思います。
こうしたラストシーンもやりすぎのひとつで、余韻を残すつもりがやりすぎて不可解さが強調されてしまったということだと思います。
撮りたいものは何なのか…
この映画の基本テーマは自然と人間の関わりだと思います。いや、テーマじゃないかも知れませんが、少なくともそれを物語を構成する上での骨子にしていることは間違いないでしょう。
長野県水挽町の6000人の住民は自然と共生しています。そういう設定です。ただ、映画の中でその共生が語られるのはその象徴的存在である巧とそこの湧き水で作るうどんだけです。そもそもの巧がどうやって生活しているのかも語られず、他の住民がどんな生活環境にあるのかも分かりません。公共交通機関もなさそうですので何千台というガソリン車が使われていることでしょう。そうしたことは何も語られません。要はこの基本テーマはその程度だということです。
東京の芸能プロダクションが新型コロナウイルス対策の補助金目当てに新規事業を立ち上げようしてグランピング場建設を持ちかけます。補助金目当てならそんな面倒なことを考えずもっと簡単な方法があるように思いますが、それは置くとして、この設定自体に作りもの臭さが漂っています。
とにかく、住民たちは反対します。芸能プロダクションの担当者は建前上住民と対立関係に置かれますが、しかし、その実、本人たちは都会生活のストレスに耐えられなくなっており、一旦は東京に持ち帰りますが、再度水挽町を訪ねたときには自分たちも自然と共生生活ができるのではないかとの幻想を持ち始めます。
そう思った矢先、巧の娘花が行方知れずとなるという事件が発生します。そして、すでに書いたラストのお仕置きシーンへと向かいます。
濱口監督はこんなありきたりの設定で一体何が撮りたかったんでしょう。
悪は存在しない?
この映画のドラマと「悪が存在するかどうか」とどういう関係があるのでしょう。私にまったく分かりません。映画のタイトルさえも「バランスが悪い」ということです。