ハリウッドにしてはメリハリ不足。実話にとらわれ過ぎ?
なぜ今この題材? という感じがする「フォード vs フェラーリ」です。
結局映画は、1966年のル・マン24時間レースにおいてフォードがフェラーリに一矢報いるという内容でなんですが、そのどちらも現在はル・マン24からは撤退していますし、題材自体に現代性が乏しい感じがします。
と、思いましたが、ウィキペディアを読みますとそもそもこの映画の企画が立ち上がったのが2011年とあります。思い返してみれば、アメリカの自動車産業が曲がり角に来ていた頃です。2008年にリーマンショックがあり、翌年にはGMが経営破綻しています。
そうした時代背景があっての企画だったのかもしれません。
初期企画当時の仮タイトルが「Go Like Hell」だったというのも面白いですね。もちろんレースのスピード感の表現でしょうが「死ぬ気でいけ!」とアメリカ社会にはっぱを掛けようとしたとも読めます。
映画の内容からはやや離れたところから入ってしまいましたが、私がモータースポーツにほとんど興味がない上に映画のドラマパターンもありきたりと感じたからだと思います(ペコリ)。
ただ、同じウィキペディアの評価欄には
本作は批評家から絶賛されている。映画批評集積サイトのRotten Tomatoes(略)による批評家の見解の要約は「『フォードvsフェラーリ』は目の肥えたレース映画ファンが期待しているであろう全ての要素を盛り込んでいる。それでいながら、同作は観客の心を掴む人間ドラマを十分に展開しているため、カーレースにそれほど興奮しないものでも満足できる作品になっている。」となっている。
とあり、評価は高いようです。
「人間ドラマ」とあるのは、おそらく組織、あるいは社会対個人の関係の描写をさしているのだと思います。
まずは個人。
良くいえば自分の哲学を持って我が道を行くタイプ、悪くいえば我が強く協調性のないケン・マイルズ(クリスチャン・ベイル)は、車に対する知識もレーシングドライバーとしてのテクニックも持ち合わせた天才的なレーサーです。
そして組織はフォードとその重役たち。
フォードは、(映画の中では)転換期にあり、モータースポーツでの飛躍を狙いフェラーリ買収に乗り出しますが失敗し、そのリベンジなのか、ル・マン24での常勝フェラーリ打倒を期してル・マン参戦を狙います。
フォード内の人物としては、会長のヘンリー・フォード2世、そしてモータースポーツでのアピールがフォードの飛躍につながると提案し、フェラーリ買収やル・マン24参戦を進めようとするリー・アイアコッカがいます。
そうした組織対個人の間に立つのが、今は引退してカーデザイナーとして活躍している元レーサー、キャロル・シェルビー(マット・デイモン)です。フォードはシェルビーにル・マン参戦の話を持ちかけます。当時(でいいのかな?)、シェルビーはル・マンで優勝経験をもつ唯一のアメリカ人だったのです。
マット・デイモンさんが演じていますので主役扱いではありますが、物語の中での立ち位置はケン・マイルズとフォードの間に入る、いわゆる中間管理職のような立場で、組織対個人の対立の中で苦悩(それほどでもないが)する人物となっています。
こうした人物配置ですのでおおよそドラマパターンは想像がつくと思います。
映画の最初には、シェルビーのレースの映像と心臓に問題があり引退を余儀なくされたといった説明的なシーンがあります。そして、マイルズの才能はあるが身勝手で手に負えないといったシーンへと続きます。
このあたりは主演俳優へのサービスシーンなんでしょうが映画的にはもたもたした印象を与えます。
続いて、アイアコッカがシェルビーにル・マン参戦を持ちかけ、シェルビーがマイルズに協力を要請するという流れなんですが、このあたりもマイルズの職人気質的な一徹なところが強調されすぎており、思い返してみてもマイルズはいつ協力することを引き受けたのかよくわからなく進んでいます。
ところで、このアイアコッカですが、現実では1970年に社長になるフォードでは重要人物ということで、映画でもかなり露出が多く重要な役回りかと見ていたんですが、立ち位置がはっきりしないかなり曖昧な人物になっていました。映画の中では、モータースポーツでのアピールの提案、フェラーリの買収、そしてル・マン24参戦をシェルビーに持ちかけていましたので責任者かと思っていましたら、途中なぜかレースの責任者としてレオ・ビーブという役員(副社長?)が前面で出てきていました。
このビーブは、フォードがフェラーリを打ち負かすクライマックスのシーンでは、マイルズを勝利の栄光から引きずり落とすという悪役として描かれています。
1966年のル・マン24時間レース、フォードは1位から3位まで独占しています。もちろんマイルズが1位です。その時、ビーブはシェルビーに3台同時フィニッシュを指示します。つまり、マイルズにスピードを落とし2位、3位の車を待って同時にフィニッシュしろということです。
シェルビーはその指示に抵抗し、苦悩の末、最後はマイルズの意思に任せます。
話はそれてしまいますが、これ、中間管理職としては絶対にしてはいけない決定ですよね(笑)。一見、マイルズを尊重しているようにみえますが、実は責任逃れです。
とにかく、マイルズは自分しか信用しない、組織の言うなりなんて思いもつかないような人物ですので、抵抗してそのままフィニッシュするかと思いきや(映画ですから)最後はスピードを落とし同時フィニッシュの指示に従います。
ところが、スタート位置がマイルズは前だったということで走った距離が他の車のほうが長くマイルズは優勝の栄光を逃してしまいます。
映画では、ビーブがマイルズの反組織的な行動を嫌っており、意図してマイルズを優勝から遠ざけたかのような描き方をしていました。
まあそれもはっきりとはしておらず、いずれにしても全員実在の人物ですので徹底的な悪役も難しいということなのか、ハリウッドにしては曖昧さの目立つ映画だとは思います。その分確かに組織対個人という意味では人間ドラマ的な映画と言えるかもしれません。
ただ、レオ・ビーブについては Leo Beebe でググり2,3読んでみますと、いい人だったよという記事が目立ちます。
ハリウッドですのでそう明確な社会的な主張が前面に出ているわけではありませんが、どちらかといいますと組織寄りの映画ではあります。
それに1966年のモータースポーツということもあり、女性はマイルズの妻モリー・マイルズひとりという寂しさです。演じているのはカトリーナ・バルフさん、モデルからスタートしている方とのこと、登場したときのまっすぐな脚とその長さにびっくりでした。
もうひとつ、レースが盛り上がっている最中にフォード2世がヘリコプターで女性を連れて食事に行き、フィニッシュする頃にまたもヘリコプターで戻ってくる画があり、それをシェルビーが振り返ってわざと強調するシーンがあり、なんだろうと気になっていたのですが、多分これでね。
ここまでヘンリー・フォード2世がル・マンでフェラーリを破ることにこだわったのは、エンツォに買収交渉を袖にされたことだけではなく、当時不倫をしていた(その後1965年に結婚)イタリア人の貴族の愛人、マリア・クリスティナ・ベットーレ・オースティンが、フォードのマシンではなく、フェラーリの大ファンであったことが影響していると言われている(実際にその姿がル・マンで目撃されており、ヘンリー・フォード2世が嫌な顔をするシーンが目撃されている)。 (ウィキペディア)