ゴーストワールド

青春とは「普通」を拒否するがゆえにいつの時代もイタイもの…

2001年の映画のリバイバル上映です。といっても、それもよく知らずにポチッとして見てきました(笑)。タイトルにもまったく記憶にありませんし、スカーレット・ヨハンソンを知ったのが2003年の「ロスト・イン・トランスレーション」や「真珠の耳飾りの少女」ですので多分見ていないのでしょう。

ゴーストワールド / 監督:テリー・ツワイゴフ

2023年の今なら、おじさんの妄想ファンタジーか…

映画なのか、原作のグラフィックノベルなのか、その両方なのかわかりませんが、カルト的な存在になっているらしく、あるいは、イーニドというキャラクターになんとなく見知ったような印象があるのはこの映画の影響を受けた映画を見ているからかも知れません。

ですので、映画を見ながら一番感じたことは、イーニドのキャラクターではなく、イーニドとシーモアの関係であり、お願いだからくっつけないでなんてヒヤヒヤしながら見ていました(笑)。

原作のウィキペディアを読みますとシーモアは映画の創作みたいです。ただ、原作者のダニエル・クロウズさんも脚本に加わっていますので納得の上ということにはなります。

そのウィキペディアを読むかぎりでは、原作はイーニドとレベッカの関係を中心に進みますが、映画はイーニドとシーモアの関係が軸でレベッカは脇にまわっています。

ですので、2023年の今の感覚で見ますとおじさんの妄想ファンタジー感を強く感じる映画ではあります。

青春とは常にイタイもの…

イーニド(ソーラ・バーチ)とレベッカ(スカーレット・ヨハンソン)がハイスクールを卒業します。二人共に特に将来について考えている様子はなく、ただひとつ、家を出てルームシェアすることだけは決めているようです。

卒業式のシーンから始まります。壇上で車椅子のスクールメイトが優等生的スピーチをしています。二人はそのスピーチに対して木で鼻をくくったように表情を変えることなくスピーチ内容を皮肉るようなことを呟いています。そのクラスメートの怪我がドラッグとセックスにはじけたスクールライフを送ってきたからということのようです。

この二人の人物像がこの映画の肝であり、なかなか適当な言葉がないのですが、いわゆる冷笑系ということになります。ただ、現在ネットなどで言われている冷笑という意味合いとは随分違っており、もう少し愛おしさが感じられる冷笑系と言いますか(笑)、自分の周りのことや人に対して興味はあるけれども素直になれない人物といったほうが近いかと思います。

いわゆる青春でしょう。

その二人が街をブラブラしながら、出会う人や出来事に対してそうした視線や言葉を浴びせていきます。その二人の関係が映画の一つの軸で、最後までそのキャラを貫くのがイーニドであり、レベッカの方は次第に、と言いますか、元々イーニドについてきただけのようにも見えましたが、いわゆる一般的多数派の人物になっていきます。仕事も見つけ、ルームシェアする家も見つけ、という具合に変わっていきますので、変わらず愛しき冷笑系であるイーニドとの間に溝ができていくという話です。

ただ、2023年の今、笑えるかどうかは別にして、基本的にはコメディですので深い話ではありません。

それにこのイーニドのキャラクターにさほど際立った印象はなく、青春とはこういうものじゃないかと思います。大人になっていくにつれ、イーニドのような感性を失いレベッカのようになってしまうからこそ、その時代、青春というものが切なく思えるんだと思います。

大人へのあこがれと「普通」の拒否…

ある日、二人は新聞の尋ね人欄に運命の女性探しの投稿を見つけ、電話を入れてその男性を呼び出し、ひそかに観察することにします。そして、その後も尾行してその住まいまで特定します。

こんなおおらかな時代もあったのかという話ですが、この映画の時代設定は1990年代らしいです。ただ、後にイーニドがレコードプレーヤーを持っていたり、CDとの比較の話が出たりすることを考えますと1970年代か80年代くらいの印象です。ファンタジー要素もある映画ですのであまり時代は関係ないということなんでしょう。

で、このあたりから映画はイーニドひとりの話になっていき、レベッカは脇役になります。

イーニドはやってきた中年の男性に興味を持ち、住まいを訪ね、その男性のガレージセールでカントリーブルースのレコードを買い、次第に親しくなっていきます。男性は名前をシーモアと言い、ヴィンテージ物のコレクションマニアで、一般的なティーンが興味を持つであろう人物とは正反対のような、いわゆるダサい系の男性です。

イーニドがシーモアの何に興味を持ったかを映画は語っていません。それゆえコメディでありファンタジーでもあるのですが、イーニドの愛すべき冷笑系というキャラクターから考えますと、人と違っていたいという、「普通」であることの拒否であり、同世代の多くが、たとえばこの映画のジョシュという男の子に象徴される同世代の男性に興味を持つことへの反抗心ということだと思います。さらにイーニドの選択はカッコよくないダサい系中年男性であるわけですから、それゆえコメディかつファンタジーになり得て今に残る映画になっているのだと思います。

ただし、2023年の今の視点で見れば、ティーン世代の女性が大人の男性に興味を持つという、こうした物語の発想の多くは男性のつくり手により生み出されているということも見えてきます。

つまり、この映画のシーモアには監督や原作者自身が反映されているということです。

消えゆくものへのノスタルジー…

ただ、少なくともこの映画の制作者たちには、この映画をティーンの女性と大人の男性のラブロマンスにするつもりはないわけで、結局のところ、イーニドはシーモアと関係は持つものの、そのことに執着することはなく、「普通」を拒否して得たものでさえ自分を満たすことがないことに絶望するということになります。

逆に、イーニドと関係を持ったシーモアは、それまでは年齢が違いすぎると思っていた(のではなく抑えてきた…)のですが、一度関係を持てば、抑えてきた反動もあり、もうイーニドしか目に入らなくなります。

しかし、イーニドは絶望していますので、すでにシーモアのことなど目にも入らなくなっています。シーモアは連絡をしてこないイーニドを探し回り、レベッカからそもそものことの真相を知り、やけっぱちで若者ジョシュに八つ当たりし、怪我をして入院します。

イーニドが病院にやってきます。バカなやつだと思っているのだろうと言うシーモアに、イーニドは、何を言っているの、あなたは私のヒーローよ、と言います。

しかし、絶望したイーニドに明るい未来はありません。

イーニドは、街のバス停で来ることのないバスを待ち続けていた老人を見つめています。なぜかそこにバスがやってきます。その老人はバスに乗り込みどこかへ旅立っていきます。

後日、イーニドは小さな荷物を持ち、その老人と同じようにバスを待っています。バスがやってきます。イーニドはバスに乗りどこかへ旅立っていきます。

このエンディングが2001年当時のアメリカにあって何を意味していたのかはわかりません。ただ、希望的なものということはないでしょう。きっと、この映画のつくり手たちの、失われていくものへのノスタルジー、そこには青春というものも含まれますが、シーモアをヴィンテージ物のコレクターにしたり、廃線となったバスを待つ老人という存在を登場させていることを考えれば、そうした消えゆくものへのノスタルジーがあるんだろうとは思います。

それと同じような意味で言えば、イーニドは中年の男たちが持つティーンの女性の虚像なんだろうと思います。