シュナーベル監督の目を通しウィレム・デフォーの姿で見るゴッホ
フィンセント・ファン・ゴッホ37年の生涯のうち、亡くなるまでの2年あまりが描かれています。監督は「潜水服は蝶の夢を見る」のジュリアン・シュナーベル監督、あらためてこの監督の過去の作品をみてみますと伝記的な映画が多い監督です。
(的)としたのは、伝記という言葉からイメージされる人物紹介のような映画ではないという意味で、この映画もゴッホがそこにいるように感じられる意欲的な作品でした。もちろんジュリアン・シュナーベル監督のゴッホ像がです。
シュナーベル監督は、映像で自ら考えるゴッホ像に迫ろうとしています。
(アルルの)農村風景の中に立つ一人の女性、ゴッホと思しき声が「そのまま動かないで!」などと声を掛け女性に迫っていきます。女性はやや驚きのあるキョトンとした表情で「なぜ?」と返します。ゴッホは「デッサンをしたいから」とズンズンと女性に近づいていきます。
この一連がゴッホの見ている画としてスクリーンに映し出されます。カメラは(ハンディで)激しく揺れ動きます。そして、画の下1/3くらいがぼかされています。このぼかしは、この時点でははっきりとは意識できていませんでしたが、アルル時代の最後にこのシーンが繰り返されますし、それ以前にどこかの時点からゴッホ視点の映像は全てこのぼかしが入るようになっていたと思います。
とにかくハンディカメラの揺れ動きは尋常ではなく相当意図的であり、ぼかしやオーバーラップ(も使われていた)にしても、あらためて考えれば割と単純な手法ですが、あざとさは感じられず、ゴッホの心理面の表現には適切だったんだろうと思います。
会話シーンも特徴的でした。
最初に、おや?と思ったのは、アルルでのゴッホ(ウィレム・デフォー)とジヌー夫人(エマニュエル・セニエ)のシーン、ジヌー夫人の顔が真正面からのアップでとらえられゴッホと切り替えされるのです。それもしつこいくらいに幾度も繰り返されていました。完全にゴッホの目線ということです。
そうした映像表現が生きていたも、ウィレム・デフォーさんの演技があってこそです。
ゴッホは自らの耳を切り落とすという行為や後にサン=レミの療養所に入ったりしていることから狂気や激情といった面で語られることも多いのですが、この映画はそうした視点からゴッホを描いてはいません。デフォーさんの演じるゴッホから感じられる人物像は、絵を描くことに一途な人物であり、それゆえ孤独であるということです。
アルルの農村、あるいは自然の中を何かを求めて動き回る(さまようではない)シーンもそれを強く感じさせました。
映画は、冒頭のシーンに続いて、パリでのゴーギャンとの出会いが簡単に描かれ、ゴーギャンの(意味合いとして)光を求めて南へ行けみたいな言葉でゴッホはアルルへ向かいます。
そしてアルルのシーン、(私は)陽光溢れる温暖なところをイメージしていたのですが、なぜか曇り空で風も強く寒々しい風景の中をゴッホが歩き回るシーンから(だったと思う)始まります。かなり長いシーンで、セリフもなくただゴッホを追い続けていただけだったんですが、結構印象深いシーンで、モノローグ映像とも言えるシーンでしたが、あれは、光を求めるゴッホだったんだと思います。実際にゴッホがアルルに向かったのは1988年2月のことです。
この映画、ほとんど物語を語るような描き方はされていません。ゴッホが見る風景、そして人を描くことに徹しているようです。
ゴーギャン(オスカー・アイザック)はゴッホがかなり好意を持っていた人物であり、一緒に画家たちのコミュニティを作ろうと夢想した人物であり、アルルに早くやってくることを急かした人物なんですが、たとえば、アルルへやってきたゴーギャンにやっと来てくれたかといったシーンがあるわけでもなく、二人の口論が描かれるわけでもなく、ゴーギャンがアルルを去る決定的な出来事が描かれるわけでもありません。
耳を切り取る行為もゴッホを語る際の象徴的な出来事にされる場合が多いのですが、この映画では、その行為自体も描かれませんし、懇意にしていた娼婦に渡したという描き方はしておらず、ゴッホの言葉として、ゴーギャンに渡すようにゴッホの身の世話をしていた(のかな?)ある女性に渡したと語らせています。
こういう映画ということです。すべてゴッホ目線で描かれているということです。何が事実であるかということではなく、ゴッホが何を見、何を感じていたかをシュナーベル監督がどう考えるかを映像化している映画です。
そして、冒頭のシーン、アルルの農道で出会った女性を発作的に描こうと相手に恐怖を感じさせるほどに迫るシーンがあり、それを機にサン=レミの療養所に入院することになります。
映画では拘束衣を着せられていました。
このシーンでは、ゴッホを退所させるかどうか判断する人物として神に使える聖職者(神父?)とゴッホの対話があります。聖職者はマッツ・ミケルセンさんが演じていました。このシーン、細かい台詞は記憶していませんが、かなり興味深く見られました。ミケルセンさんがこうした役にぴったりということも良い効果を与えていました。
そして、最期の地オーヴェル=シュル=オワーズ、絵画として残ってもいる医師ガシェとの対話も印象深く描かれています。ガシェ医師を演じているのはマチュー・アマルリックさんです。
もうひとつ、ゴッホはその死後に評価が高まった画家ですが、死の半年前の1890年1月に出版された『エルキュール・ド・フランス』に評論家のアルベール・オーリエによる高い評価の記事が掲載されたらしく、映画の中では、ルイ・ガレルさんがオーリエ役としてその記事を朗読していました。
ゴッホの死は、本人に自殺の意志があったどうかはわかりませんが自らに拳銃を放ったというのが定説かと思いますが、この映画では、ゴッホが絵を描くことを妨害するかのような人物(少年?)二人と揉み合いになり、暴発なのか、男が意識して撃ったのかよくわからない描き方をしていました。そうした説もあるようです。
シュナーベル監督は、ゴッホが自ら死を望むような絶望のしかたをしていなかった、もっと描きたいと思っていたととらえているのかもしれません。
ゴッホとはこういう人物であったとか、その死の真相に迫るであるとか、そうしたゴッホではない、ジュリアン・シュナーベル監督の目を通し、ウィレム・デフォーさんの姿で現れた実に新鮮なフィンセント・ファン・ゴッホの伝記的映画でした。