どんなにファンタスティックであっても台詞なしの違和感は拭えない…
「セリフなし映画」ですか。以前見た「草原の実験」も台詞なしで通していましたがすごい違和感を感じました。この「ゴンドラ」はどうなんでしょう。
ゴンドラは想像の翼を得て…
寂れた山間部のゴンドラ(ロープウェイ)は山間の町と村を結ぶ唯一の交通手段です。そのロープに吊られた2台の古ぼけたゴンドラは30分に一度行ったり来たりし、その途中で1回だけすれ違います。
イヴァ(マチルド・イルマン)は父親の死により生まれ故郷の村に戻り、ゴンドラの乗務員として働くことになります。もう1台のゴンドラの乗務員はニノ(ニニ・ソセリア)です。二人が地上で会うことはありません。30分に一度だけすれ違いざまにゴンドラから相手を見るだけです。
ゴンドラは村人やその子どもや家畜を運びます。そんな変わらぬ日常ですが、30分に一度のめぐり逢いはニノとイヴァふたりの間に特別な感情をもたらします。笑顔を交わし、敬礼で好意を示し、すれ違いざまに果物を投げ入れ、停留場に置かれたチェスの対戦を楽しみ、そして次第に相手をより近くに感じたい感情へと高揚していきます。
恋愛です。ニノはすれ違いざまに制服の上着をエロチックに脱ぐさまを見せたりとイヴァを誘います。そして二人は地上へと降り立ち互いに向かい合います。しかし、それ以上に関係が進展することはなく、イヴァがニノの転職希望を知ったことからその関係もいったんは休止、しかし、これは映画です(笑)、二人はこの危機を想像力で乗り越えます。
二人の想像力はゴンドラを飛行機に変え、ロケットに変えて空想の世界へと飛び立っていきます。そしてまた、ニノはヴァイオリン、イヴァはホルン(だったと思う…)を演奏し、地上からゴンドラを見上げる村人たちも様々な生活音でその演奏に参加し、山間は演奏会と化します(にはなっていなかったかな(笑)…)。
という、ゴンドラが30分に一度だけすれ違うというドラマ性をうまく生かしたファンタジックな映画です。一見、ニノとイヴァのレズビアンが映画の軸にも見えますが、そういうことでもなさそうで、その恋愛もひとつの要素に抑えられており、他にロープウェイの管理人がニノに気があることやイヴァと男女の子どもたちの交流や恋愛ごっこなどがのどかな空間とゆったりした時間の中で描かれていきます。
ただ、この映画のような世界が今のジョージアにあるわけではなく、また、ドイツ人であるファイト・ヘルマー監督にしても、こうした時間と空間は日常にはありえないと思われますので、よく言えばノスタルジー、悪く言えば逃避的ということになるかと思います。
もちろん映画が今のジョージアの話と言っているわけではありませんが、以下のロケ地(と思われる…)めぐりをしたことから余計にそんな感じがする映画です。
ロケ地はジョージア(Georgia)のクロ(Khulo)か…
このロープウェイはジョージア南部で実際に運行されているものらしく、日本の公式サイトには「フロ」という小さな村とありますので GoogleMap で探してみました。
ジョージアの黒海沿いの町バトゥミから直線距離で60kmくらいの Khulo(フロ? クロ?…)という町から Tago という村にかけて Khulo Tago cableway というものがあります。左上の「拡大地図を表示」をクリックしますとゴンドラの写真があります。
その GoogleMap を下にスクロールさせますと Tago という表示があり、その状態で右下のストリートビュー人形を Map 上に移動しますと約 2km のロープウェイのルートが表示されます。
Tago 周辺をストリートビューで見ますとゴンドラがあります。ただ、このロープウェイはワンウェイのようですので映画とは違うかも知れません。
映画はかなりファンタジックに演出されていますが、Tago 周辺にはホテルもありますし、グランピング施設もあります。
ロープウェイ停留所あたりの上空からのドローン撮影だと思いますが、Tago 辺りのストリートビューです。右上に白いテントが点在しているのがグランピング施設だと思います。
都会人がそそられるロケーションだとは思います。
セリフあり映画の完全否定か…
で、台詞なし映画についてです。
まず印象としてですが、「草原の実験」よりは違和感を感じるシーンは少ないです。でも、それは台詞の必要のないシーン、つまりは人と人が相対するシーンが少ないからであって、たとえばニノとイヴァのツーショットのシーンではなぜ言葉で伝えないのだろうとの思いがわいてきます。ニノもイヴァも喋りたいのに、つまり、相手に自分の気持ちを伝えたいのに、そのすべを取り上げられて気持ちを持て余しているように見えます。
なぜヘルマー監督は台詞なし映画にこだわるのでしょう。その問いに答えているインタビュー記事がありました。
その中でヘルマー監督は「台詞なしの映画はそれに見合う題材を見つけるのが大変だが、その困難を乗り越えて作り上げることはとてもやりがいのあるものであり、」に続けて
because we get something which we can show (screen) in any country of the world. It does not need any subtitles or dubbing.
なぜなら、世界中のどの国でも字幕や吹き替えなしで上映することができるから
と答え、続いて「(監督自身が)吹き替えは俳優本人の声が置き換えられることにフラストレーションを感じるし、字幕は読むことに気がいき映画を楽しめない」と言います。さらに、
In a way, for me, making movies without dialogues is the pure essence of cinema.
ある意味、私にとって台詞なし映画を撮ることは映画の最も本質的な要素です
と語り、ただし「映画には音は重要なものであり、映像と音のコンビネーションとだと考えている」と締めています。
また、別のインタビューでは、
- https://variety.com/2023/film/news/veit-helmer-gondola-coccinelle-film-world-sales-tokyo-1235735328/
「映画において必ずしも台詞が必要とは感じていない」に続いて、
From an artistic point of view, movies were more sophisticated towards the end of the silent era than today, But still there was dialogue needed during the silent era, which the audience had to read on title cards, in order to understand fully the narration. Those cards and cinema do not match either.
芸術的観点から言えば、映画は今よりもサイレント時代終盤のほうがより洗練されていた。しかし、その時代でさえ、観客は物語を理解するためにタイトルカードを読む必要があった。それらのカードと映画はぴったりくるもの(調和しているわけ…)ではない。
とまで言います。
私の理解が間違っていなければ、映画における台詞の完全否定です。映像と音だけでより洗練された映画を作ることができると言っています。
んー、と唸るしかないですね。感性の違いというしかなく、私などは、むしろこの映画の場合、効果的に短い台詞を入れたほうが情感豊かになるように思いますし、台詞なしで通すことで台詞を入れたことと違った何かが生まれているようには感じません。
まあ、一鑑賞者が余計なことですね。