大いなる不在

最優秀俳優賞受賞も納得の藤竜也さんと曖昧な映画の主題…

前作「コンプリシティ 優しい共犯」のレビューには「日本映画には珍しいセンスの良さが光る」とか「次回作への期待が大きい監督」と書いた近浦啓監督の長編第二作「大いなる不在」です。

大いなる不在 / 監督:近浦啓

藤竜也さんにつきる…

藤竜也さんが昨年2023年のサン・セバスチャン国際映画祭で最優秀俳優賞を受賞しています。当然かなと思います。

藤さんが演じているのは認知症を患った元大学教授です。病状がかなり重度になった状態から始まり、フラッシュバックでその進行度合いが断片的に描かれていきます。ですので、映画は藤さん演じる陽二を追っているわけではないのですが、その陽二の静かなる存在感が際立っています。

介護施設で息子卓(森山未来)に、内緒の話だから隣に来てくれと言い、ここは日本ではないとか、監禁されているとか、パスポートを取り上げられているなどと言う様子が実にリアルに感じられます。その言いようが本人にとってはそれが現実なんだなあと感じられるのです。

陽二はもともと人への優しさや思いやりのない人物として描かれています。理詰めで相手をやり込めるタイプです。卓とのシーンでも、卓の一言一言に対して、今の言葉で言えば論破するように卓の言葉を否定していきます。その物言いも、表向きは強圧的には見えないのにこんな人がいたら嫌だなあと思える陽二なんです。うまいですね。

介護施設に入る前の直美(原日出子)と暮らしているシーンでも、認知症ゆえの頑固さの演技に気負ったところがなく自然体の頑固さでその認知症に説得力があります。

という、とにかく藤竜也さんにつきる映画かと思います。

映画の主題はどこに…

で、問題は映画全体としてはどうなのかということですが、映画の主題が認知症の陽二を見せることにあるのかと言えば、実は違うのではないかと思います。

この映画は森山未来さん演じる陽二の息子、卓のシーンから始まり、その卓にとって長く「不在」であった父親という存在を発見していく過程を見せようとしているんだと思います。そして最後は、その「不在」が解消されることはないにしても、父親のある一面を知った後の卓を描いて終わります。

つまり、プロローグとエピローグというスタイルをとっているわけですので、ここにこの映画の主題が明確に現れてこないといけないつくりということです。

東京で俳優として活動している卓の新作舞台の稽古シーンから始まります(実際は違うけど主要な意味合いとして…)。卓が主演俳優と思われるその舞台の内容はかなり抽象的で観念的です。そこに父親陽二が警察に保護されたと連絡が入り九州に向かいます。以後はほぼ映画の9割ほどを占める九州パートとなり、そして最後は再び冒頭の演劇の稽古シーンになって終わります。

この演劇シーンでは、演出家役を実際に存在する「Q」という劇団を主宰している市原佐都子さんという演出家が演じています。実際の稽古シーンを撮っているようなリアルさでしたのでどういうものなのかはわかりませんが、映画のトーンとしてはかなり異質に感じられます。意図してのことでしょう。

で、この演劇シーンがよくわからないんですね。卓の台詞に何らかの意味があったように感じますが、具体的な台詞ではありませんので九州パートとの関連がよくわかりません。

現在では映画を見る見方も様々ですのでなんとも言えませんが、この映画などは劇場で見ることを前提に作られていると思われます。そうであるならば、難解さにおいては見る側の直感的な理解が可能な範囲を前提にすべきだと思います。もちろん人それぞれですので難しいところではありますが、このプロローグとエピローグから卓の心の変化を直感的に感じることはかなり難しいと思われます。

これがこの映画が全体としては曖昧なものに終わっている原因かと思います。

近浦啓監督のうまさとそれゆえの…

九州パートのつくりは、一作見ただけの者が言うのもおこがましいのですが、近浦監督らしいうまさが出ています。

卓は妻である友希(真木よう子)とともに九州へ向かいます。卓は陽二が認知症を患っていることを知り、また一緒に暮らしていた直美がいなくなっていることを知ります。

その直美の「不在」を失踪ミステリーのように描きつつ、陽二と直美の過去を現在の認知症の陽二と交錯させながら描いていきます。見るものの興味を惹きつけていくのはとてもうまいと思います。ただ、この映画では肩透かしに終わっているものが多く、そもそものプロットにそのうまさを生かすだけのものがないのだとは思います。

結局、直美の失踪についてはそれがどういうものであれ回収できていませんし、卓が九州で知ることができたのは陽二の現在と直美へのラブレターの存在だけです。その意味では変わりようがなかった卓ということかもしれません。

とにかく、九州パートです。

陽二は、20数年前に妻と幼い卓をおいたまま、直美と暮らし始めています。映画はその詳細を説明していませんが、陽二から直美へのラブレターの存在を明らかにして、陽二の直美への押さえきれない愛があったとしています。学生時代の初恋の相手らしく、その後、自分は望まぬ結婚をしてしまったが、やはり君への愛を押さえきれないと書いています。もちろん映画は、これを純愛としているわけでなく、その後の陽二と直美の生活を陽二の身勝手さとそれを優しく受け止める直美の思いやりとして描いていますので、実際に見えてくるものは陽二の愛の「不在」です。

また、直美の息子をドキッとさせるサスペンスタッチで登場させたりします。そしてその息子が、母親は陽二に家政婦のように使われてきたと言い、お金を要求してきたり、いっとき直美の姉が陽二の面倒を見るために陽二の家に来ていたことを明かしたり、さらにその姉が陽二の性的暴行(そのようには描かれていない…)により足を怪我をしたとしたりと過去のあれこれを小出しにして引っ張っていこうとしています。

それら、卓が新しく知ることとともに、卓と陽二のフラッシュバックも入ります。

卓が陽二と直美の暮らす家を訪ねるシーンがあります。ちょっとわざとらしい設定とは思いますが大河ドラマ出演を機に訪ねたことになっていましたので、自ら俳優として成功していることを見せつけたかったということでしょうし、もうひとつのシーンの友希と結婚した際の会食シーンにしても、自分を捨てていった父親に自分はあなたがいなくてもちゃんとやっていると強さを誇示しているということです。

結局、卓には陽二を拒絶しつつも父親という存在を求めているということであり、すでに書いたようにそこからの変化がエピローグで見えないといいうのは映画として弱いんじゃないかということです。

藤竜也さんの演技が称賛されるだけにとどまらず、森山未来さん演じる卓の変化が前面に出てきていればもっと厚みをある深い映画になったように思います。

なお、付け足しのようになってしまいますが、あまり日本人監督が使わないようなカメラ位置のカットが印象的です。卓と友希が最初に介護施設を訪れた後の坂道の引きの画なんてとても美しいです。そこに木々を揺らす風が吹くんです。どうやって撮ったんでしょう。送風機じゃあんな画は撮れないでしょう。

大いなる不在とは…

ところで、タイトルに「大いなる不在」というやや大層に感じられる言葉が使われていますので何を指しているのかなあと考えながら見ていたのですが、ここまで書いてきたことからしても正直なところよくわかりません。第一義的には卓にとっての父親の存在、陽二のことを指していると思われますが、あるいは陽二にとっての直美の「不在」の意味合いもあるのかもしれません。

さらに穿った見方をすれば「愛の不在」かもしれません。この映画の中で思いやりという意味の「愛」を感じられるのは直美と友希のふたりだけです。陽二も卓も身勝手な人物です。

余計なことでした(笑)。

どうしても自らシナリオを書きますと自分自身が反映されますし、それは当然ながら自らと同性の視点の人物になります。他の脚本家、あるいは原作ものの映画を見てみたい近浦啓監督ではあります。