ストーリーを語るだけでは感動ものにもならない
平山秀幸監督と聞きますと、どうしても「愛を乞うひと」の、あの激烈な原田三枝子さんの演技が浮かんでしまい、期待値が高くなってしまいます。
とは言っても、それ以降は「しゃべれども しゃべれども」「信さん・炭坑町のセレナーデ」くらいしか見ておらず、なかなかシリアス系のものにであう機会がありません。
この「閉鎖病棟 それぞれの朝」、どんな物語かまったく知らない映画ですが、そのタイトルからはかなり期待できそうです。
んー、最後まで焦点が定まらず終わってしまいました。
感動ものにしたかったのか、人の心の中に迫るシリアス系でいきたかったのか、どちらともつかない、かなり中途半端な映画になっています。
主な舞台は精神科病院で、物語の8割くらいはその病院内で進行し、結果、殺人事件がおきます。その後の2割くらいが裁判を含めた後日譚となっており、時に、主たる登場人物3人の過去が説明的に入ります。
物語の軸となる、というよりもそうすべきだったものはふたつかと思います。
ひとつは梶木秀丸(笑福亭鶴瓶)という人物その人で、実際にそういうことがあるのだろうかと思うくらい数奇な運命を辿っています。
冒頭がそのシーンです。死刑囚秀丸の絞首刑場面です。白黒で描かれます。そういえば他の人物の過去もすべて白黒でした。
秀丸は執行後の検死で息を吹き返します。処理に困った担当部署(よくわからない)は、すでに死刑は執行されているのだから再び執行する理由はないということで、精神科病院に送致となります。
こういう事例ってあるのだろうかとざっとググってみますと、明治6年の「石鐵県死刑囚蘇生事件」という事件がヒットしますが、そこには元検察官の話として、現在では執行後30分間そのままの状態(ぶら下げておく)を維持するので蘇生の可能性は皆無と書かれています。
原作者の帚木蓬生さんが精神科医でもあるということで何らかの実体験にもとづいているのかと思いましたが、創作ということなんでしょう。よくよく考えればありえないですね。
で、映画ですが、そんな特異な過去を持つ秀丸であれば、どう考えてもその秀丸を中心に据えた映画にすべきだと思いますがそうはなっていません。
冒頭の死刑執行の場面から精神科病院の秀丸の画に変わります。秀丸は車椅子生活で病院内の小屋で陶芸をやっています。
私はこのシーンが死刑執行の後なのか前なのか、しばらく悩んでいました。秀丸の風情に過去が感じられないのです。死刑判決が確定するほどの犯罪(この時点ではわからない)を犯し、常人には想像すらできない絞首刑という体験をし、さらに蘇生し生き延びたという、その心の内を表現する言葉さえない人生を歩んでいる人物には、まったく、まったく、まったく見えないのです。
もうこの時点で、この映画は終わっています(ペコリ)。
とは言っても、まあ映画なんだからと映画館を飛び出すわけでもなく(笑)何が起きるんだろうと多少の期待をもって見ていたわけなんですが、その秀丸がふたたび殺人事件を起こします。
こう書きますと、ちゃんと秀丸が軸になってるじゃないかと思われるかも知れませんが、確かに殺人を犯すのは秀丸ではあっても描かれているのは起きた物事だけで、秀丸がふたたび殺人を犯す怒りも、あるいは逆に怒りのない空虚さも、そしてそこにいたる苦悩も葛藤も、そういった秀丸の心理的なことがまったく描かれません。描こうとしているようにも思えません。
気にかけている少女がレイプされたから、その犯罪者を殺した、ただそれだけしか描かれていません。
この事件の、事件そのものではなく事件の経緯が映画の軸にできたであろうもうひとつです。
島崎由紀(小松菜奈)が入院してきます。高校生だと思いますがよくわかりません。そう語っていたかも知れませんが、この映画にはどの人物にもそれぞれのバックボーンを感じさせるものがありません。
入院の理由は不登校らしく、その原因となっているのが母親の再婚相手の性的暴行です。ただ、これも男が由紀をレイプするシーンがあるだけで、性的暴行がありました、不登校になりました、母親が入院させましたくらいにしか見えません。
そして、由紀が粗暴な入院患者の男にレイプされます。秀丸は、同時にそれを知った塚本中弥(綾野剛)に誰にも言うな、俺がなんとかすると言ってそのレイプ犯を刺し殺します。
んー、さすがにもうちょっと(映画に)ためはないの? と思いますが、それはともかく、この一連の経緯は、こうした犯罪に対する現在のこの国の社会通念のようなものがよく現れています。
性犯罪は誰にも知られずなかったことにすることが被害者にとって一番いいことだと言っているようです。
秀丸と中弥がこのことを知ったのは、カメラマニアの入院患者が犯罪の写真を撮っていたからですが、秀丸はその写真をすべて消すように命じています。中弥にも誰にも言うなと言い残して殺人に及んでいます。秀丸は逮捕され裁判となりますが、殺人の動機は何も語りません。
話が映画からややそれていますが、現実社会おいて、被害者が性犯罪をすべて公にして戦うべきと言っているわけではありません。被害者の個人情報をあきらかにすれば、セカンドレイプもあり、被害者をさらに傷つけることになります。現実社会では個々のケースや被害者個々の問題としてとらえざるを得ませんが、これは映画です。
こういうツッコミの浅い映画でこうした社会通念のようになってしまっていることを追認することはよくないと言っているだけです。
そもそもレイプがドラマの要素となるというその安易さに問題があるのですが、この映画だって、由紀をもっと丁寧に描くなりいくらでも違う視点はあるはずです。この映画は、レイプされた由紀が自ら姿を消してしまったと最後の裁判のシーンまで登場させていません。
レイプをドラマの要素としか考えていないというのはこのことです。さらに、最後の裁判のシーン、突然秀丸の弁護側の証人として登場するのも秀丸を救うという、これまたドラマとしての位置づけだけであり、由紀の迷いや苦悩、そして決断などの心情は何も描かれていません。
なんだか自分ながらムキになって書いている気がしてきました(笑)。
いずれにしても、これだけの特異な物語をこんなあっさりとストーリーを説明するだけの映画にしてもったいないと思うだけです。
中弥のことを何も書いていませんが、それは何もないからです。中弥は、映画の中で重要な役を与えられていません。ただ皆に優しい人物として描かれているだけです。
ただし、あるいはですし、それができていればの話ですが、そのやさしさがこの映画のやりたかったことなのかもしれません。タイトルに使われている「それぞれの朝」、それはそれぞれが何かに向かって飛び立つという意味の副題だと思います。
そこにいたる心理的なものは描かれていないにしても、中弥は、(なぜかわからないけれど)事件を機に病院を出て家に戻り働き始めますし、由紀は裁判の証人席で看護師を目指して頑張っていると言っていましたし、秀丸については(もし厭世感を持っているという設定であったのなら)、少なくとも生きてみようと思い始めているように描こうとしたのだとは思います。
もうひとつ、精神科病院の実態がどういうものであるかは知りませんが、少なくともあんなエキセントリックな人々や空間ではないとは思います。その点でもあまり好感のもてる映画ではありません。
精神科病院が舞台の映画では「歓びのトスカーナ」というイタリア映画を思い出します。ヴァレリア・ブルーニ・テデスキさんの圧倒的な演技の映画で他に思い出すことはほとんどありませんが、少なくともこの映画のような入院患者の描き方はしていませんでした。
そう考えてみればタイトルの「閉鎖病棟」というのももうひとつしっくりきません。原作を読まないといけなさそうです。